フォールン・ナイト


「カナリアの吟遊詩人を知ってますか」
 『エクリプス』に戻ると、マスターはまだサッカリンを探し回っていた。
「カナリア?」
「ええ。…コーヒー、淹れますね」
 抱えて入った紙袋をカウンターテーブルに置いて、僕はコーヒーを淹れる準備を始めた。といっても、僕がすることといえば、年期の入ったコーヒーメーカーに、挽いてもらった豆を入れて、三人分の水を入れて、スイッチを入れるだけ。
「カイル」
 僕に背中を向けたまま、カーライルは僕を呼んだ。
「なんです」
「僕のは、砂糖多めにね」
「分かってます。…どうしてコーヒーを淹れようとする度に、一々それを言うんですか」
 まるで子供扱いだ。しかしコーヒーはまだ出来上がっていないというのに、砂糖云々に意識が向いている辺り、本人も子供っぽい。
「どうしてって…、毎回言っておけば、忘れずに済むだろう?」
「それはマスターだけです。大体僕は砂糖いりません。一々僕に言わなくたって、後で自分で入れたらいいでしょう」
「冷たいね」
「どうせ僕は体温ないですよ」
「いや、別に悪気があっての言葉じゃないんだけど」
 弁解の言葉を言いながらも、彼は僕に顔を見せない。
「気にしないでください。言ってみただけですから」
「オートマタ、ウィルマシー、エキシビット・ダミー…、僕は色々な種類の人形を作ってきたけれどもね。みんなきみみたいな皮肉屋とは遠かったよ」
 飾り物と一緒にしないで欲しい。
 そう思いつつカーライルの首筋の辺りを思い切り睨み付けてやると、彼は取り成すように、
「カナリアか…、うん、そんな言葉もあったね」
 まるで久しく聞いたことがなかった言葉に対する反応だ。余程興味のないことらしい。

「マスターにとっては、やっぱりキメラもその程度ですか」
 キメラ、とは、カナリアも含む遺伝子融合生命体の略称を言う。工学倫理上、人間以外の動物と動物の融合体をキメラと呼んで、カナリアと区別している。
「そうだねえ…、遺伝子工学は専門じゃないし、プロフェッショナルなコメントを求められてても窮するんだけれど…、科学技術の行き着くところは、その技術が日常的に当たり前のものとなってしまうところにあると言っても過言でないからね。それは究極の目的とはいえ、形が見えているものほど、少しばかり寂しい思いがあるかもしれない」
 カーライルの言うことはあまりよく分からないが、彼が言うのだからそうなのかもしれない。
「カナリアが近くにいるのかい。吟遊詩人ということは…、雄か」
「はい」
 僕は、先日の邂逅をカーライルに話した。邂逅、と言っても、その辺にいる他の多くの吟遊詩人と同じで、直に何かを話したわけでもない。けれど、その少年がカナリアだったという事実は、人に話すに値するだろう。
「綺麗な声をしていただろう」
「はい。美しい、というのとは違う綺麗さでした。その子は呟くように歌っていたのですけど、そんなことは関係がなかった。辺りの空気に関係なく、すっと染み込んでくるような感じなんです。本当に綺麗なものを経験したときに、それを言葉で言い表すことは愚鈍だと言いますけど、その通りだと思いました」
 今も、思い出すだけで胸が詰まりそうになる。少年の歌は、僕を心地良く苦しめ続けているのだ。
 それは果たして、幸せなことだろうか。

「きみが言うのだから、そうだったのだろうね。…僕も、カナリアには数えるほどにしかお目に掛かれていない。聞きたかったな」
「そうなんですか」
「カナリアでなくとも、吟遊詩人は流れるものだからね。…きみは、カナリアが作られた意味を知っているかい?」
 不意の質問に、僕は答えられなかった。
 その間にもカーライルは手を動かし続ける。やがて、
「ああ、あったあった」
 ようやくお目当てのものが見つかったようで、明るい声を上げ、腰を上げると共に持ち上げたのは、真っ白な結晶が詰まった袋だった。砂糖や塩と同じようなサラサラとした、多少目の荒い粉だ。
「それがサッカリンですか」
「そう」
 無造作に袋を開き、少し指先にすくって、僕の鼻先に差し出した。
「舐めてごらん」
 言われて、白い粉を舐めてみる。
「甘いだろう?」
「…よく分からないです。でも、初めて感じる味だと思います」
 僕が感想を述べると、青年は腕を組んだ。
「やっぱり、分からないか。これが普通の人なら、反応が面白いんだけどね」
「そんなに甘いんですか」
「同じ量で砂糖の二百倍、ってところかな。きみでなかったら、甘過ぎて思わず舌を出すに違いないし、しばらくは甘いものが食べたくなくなるね」
「へえ」
「うーん…、もうちょっと驚いて欲しかったな」
 カーライルは苦笑いして首を傾げる。僕も首を傾げる。
「二百倍甘い、って、どういう感じなのか想像出来なくて」
「成る程…、それは確かに」
 僕には正しい味覚が備わっていない。先日ここに来る途中で飲んだコーヒーも、僕はあくまで身体を温めるために飲んだのに過ぎず、苦味などこれっぽっちも感じ取れない。夢と同じで、必要がないからだ。
 人の味覚は、体内に毒が入り込まないようにとの指針が基本なのだという。これもやはり、僕にはあまり関係のないことだ。
 逆説的に言うと、味の判別が出来なければ何を食べても同じ、ということ。毒も薬も、僕にとっては同じだ。
「同じような分かり難さを言えば…、針で指をつついて、『ナイフで腹を刺すと、この二百倍痛いぞ』って言うようなものかな」
「それ、例えが悪いと思います」
 僕は素っ気無く言って、出来上がったコーヒーをカップに注いだ。カーライルのコップには、希望通り砂糖をたっぷり入れてやる。
「僕も今、そう思ったよ」
 彼はそう答え、指に残ったサッカリンをひと舐めし、顔をしかめた。

 大人になるには早過ぎる
 夢を終わらせるための夢を見よう
 僕はきみの未来が欲しいんだ
 そして彼は一日だけ生き延びた…

 結局その後、散らかった店内の掃除をすることになった。掃除とは言っても、通路にまで出された箱を棚に戻すだけの作業だったのだが、案の定カーライルは『客の注文を届けに行く』と言って、コーヒーを飲むや否や逃げるように店を飛び出し、僕一人で片づけをすることになった。マスターには逆らえない自分が恨めしい。
 不貞腐れた僕は、夢で聞いた少年の歌を復唱しながら床をモップで磨き、綺麗になったところでコーヒーを飲みながら看板少年の人形に店主への悪口を聞いてもらい、サッカリンの甘味に相当する量の砂糖を、残ったコーヒーに溶かし込んで、店主の帰りを待ったのだった。
 帰ってきたカーライルがどうなったのかなんて、僕は敢えて言わない。

     □   □   □

 カナリアの少年を初めて眼に留めてから幾日か経った頃、僕は彼と話をしてみたいと思うようになった。
 電気街の裏通りという、偶然の邂逅が一期一会でなくなる可能性は低かったが、夜になる度に僕の脳裏に現れ続けるカナリアの少年が、本当にあの少年なのか、どうしての確かめたかった。
 歌が、そのまま心を捕えるというのは、一体どのようなものなのだろう。
 実際に体験をした僕でさえ、それを言葉の上の比喩でしか表現出来ない。
 感情の価値のすり替えは、その方向性のすり替えだ。感情を数値で考えることが出来ないことは分かっているのに、僕は自分の感情がどんな種類のものなのか、その明確な答えを求めてしまっている。
 歌は…、誰のために歌われるのだろうか。歌い手のためだろうか、それとも特定の聞き手のためだろうか。
 『エクリプス』の看板少年や、他の人形たちに歌を聞かせてみて、彼らがどのような感想を持つのかは誰にも分からない。
 歌とはそのくらいの価値なのかもしれない。
 コートの裾が、微風にパタタと鳴いた。僕はふと夜空を見上げ、今夜も星は見えないな、と確認をする。
 空の星は数万年前の光がようやく届いたもので、ならば数万年ぶりの邂逅が果たされないことは少しばかり物悲しい。
 数百万人の人が住む電気街の中で、僕と少年という二人が交錯したのは偶然ではないだろう。
 ここが電気街だからこそ僕はここにいるのだし、彼がカナリアだからこそ、少年は僕の中に居続けているのだから。

 そして…、少年は、いた。
 初めて彼を見たときと同じように、そして僕の見た夢の中での情景と全く同じに、少年は壁際にうずくまっていた。
 その喉からは、透明過ぎるホワイトノイズ。
 殆ど沈黙でしかないのに、僕は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
 彼は、一体どうして歌っているのだろう。

 The moon desappear in the fallen night
 Fallen angels in the end of the black sky
 We need not to work a miracle
 I runned out to talk a dream
 But I am going to see you...

「こんばんは」
 夜に誰かに出会ったならば、僕は必ずそう挨拶をすることにしている。
 一つの歌が途切れたとき、僕は少年の前に立って、やはりそう呼び掛けた。
 カナリアの少年は、何処かぼんやりとした視線を僕に向けた。まるで彼は、歌を歌う間はトランス状態にあったかのようだ。違う世界からこちらに舞い戻ってきたばかりのような様相をしてみせる。
「こん…ばん…は」
 人見知りをするのだろうか、彼は細い声で応える。その声は歌唱中の凛とした細さと違って、ただか細い、弱弱しいものだった。
「きみの歌が聞きたくて、来たんだ」
 取り成すように微笑んで、僕は言った。
「なんていうのか…、凄く綺麗な声をしているね。初めて聞いたときから、どうしても忘れられなくて」
「…ありがとう」
 そうは言ったが、その声には殆ど感情というものがこもっていなかった。
 彼はいつもそんな無表情で話をするのか、と何故だか少し不安に思う。
 しかし、俯き加減に話すその表情は、もしかしたら照れているようにも見えた。
「覚えてない…、かな。前にもここで、きみに会ったことがある」
 何故か、僕は彼に自分のことを思い出してもらおうとしていた。ほんの数秒、場の空気を共にしただけなのに。
「ああ、先に名乗るべきだね。僕はカイル。三番電気街の『エクリプス』で人形師の助手をしてる」
「リュカ――」
「それがきみの名前」
 僕が訊くと、彼はコクンと頷いた。
「ごめんなさい」
 見上げる角度で、突然少年は謝った。何のことかと一瞬思ったが、僕のことを覚えていないことへの謝罪だったらしい。
 残念だったけれど、無理もない。
「きみは…、カナリアだね?」
 視線の高さを合わせるために、その場にしゃがみ込んで僕は問うた。
「…そう」
 リュカの翼がフワリと動き、彼の身体を包み込む。少年は羽にそっと触れた。自然な仕種だった。
 牢から逃れた、或いは鳥籠から逃げ出した鳥のようだ。
 闇に輝く天使の翼は、光を嫌う堕天使の羽。
 闇夜に歌うカナリア・コール。
 しかしその喉から聞こえる歌は、天上の音楽に等しい――。

「カイルは、ぼくをどうにかするつもりなの?」
 細い身体を抱くような姿勢で、リュカは言った。
「どうにか?」
 僕は首を傾げる。
「カナリアの声を欲しがる人は沢山いる。カナリアの歌を欲しがって、次には自分だけのカナリアを欲しがって…、カナリアを閉じ込めてでも、って思う人は沢山いる」
「僕は…、そんなつもりはないよ。僕はただ、きみの歌が訊きたいと思う、純粋にそれだけだ。きみを束縛して、捕えてまで手に入れようとは思わない」
 僕が言うと、少年は安心したように腕の力を緩めた。
「どの土地にも、そんな人はいるんだ。だから…」
「だから?」
「だから、ぼくは自分を消した」
 リュカは、リュカを消した? しかし、
「…きみはここにいるじゃないか」
 僕の指摘に、彼は首を振る。
「普通の人には、ぼくは見えないんだ。ぼくが、そうしたから。――見えるのは、ぼくのように作られた者だけ。…カイルも、そうなんでしょう? ぼくと同じだから、ぼくが見えるんでしょう?」
「僕は――」
 僕は、思わずリュカから一瞬眼を逸らした。が、少年の顔を見返す。
「――そう、確かに僕は人間じゃないよ」

 ――僕は、ディジタル・エンゼルと呼ばれる種類の機械人形だ。
 外見上は人間と同じ作りで、ヒューマロイドとか、オートマタなどと呼ばれる者と同じく、作り物の身体に膨大な量のヒト細胞が移植されている。他の二者と異なるのは、彼らはあくまで人の模倣なのに対し、僕らは自己意識を持ち、自己保全機能――新陳代謝、自己治癒が可能――を持ち、そして…、感情があり、夢を見る者もいる。
 その現実から、僕は出来得る限り眼を背け、逃げている。
 それは現実からの逃避ではなく、偽りの忘却にも似た慰めなのかもしれない。人にある多くの感情が、僕には確かに欠けている。
 計数的堕天使。
 人に近いがゆえに、堕ちるのも早い。
 人と同じ程度の自己保全機能では、一度狂うと直らない。
 『エクリプス』のマスター、カーライルは、正しくは『カイル』のマイスター、だ。
 彼は人形師、僕の全てを作ったのは、そして僕の原型となっているのは、他でもないカーライル自身だ。
 意外にあっさりと、僕は少年に自分の正体を明かしていた。むろん、通常、こんなことは他人には簡単に話せるようなものではない。『僕は人形です』だなんて、おいそれと会話の中に混入出来るものではないことくらい、想像に難くないだろう。
 リュカは、けれどそのことについては何も言わなかった。きっと、一番最初からとうに分かっていたことだったのだろう。
 彼も僕も、同じ二次的な存在であるから。
 だから、それには少し安堵した。

「でも、自分を消すなんて、そんなことが出来るの?」
「それは…、やっぱり、ぼくがカナリアだからだと…、思う」
 彼にとっては、その説明だけで十分なのだろう。キメラには、当人にしか理解出来ない現実に対した現象や要素が、未だに多い。彼らの意思は確かに独立しているのだ。
 ひっそりと一人で歌っていたのは、そういうことだったのかと思った。彼は、何も求めていなかった、それだけなのだ。
 カナリアをカナリアたらしめたのは、彼らの開花した能力が彼ら自身を稀少化したことによる理想なのだろう。
 段々僕は、リュカも本当は人形なのではないかと思うようになった。そう思って眺めてみれば、少年の相貌には紛れもなく作り物めいた趣がある。
 彼は創造物特有の危うさを備えているのだと気付いた。
 そう思えば、彼の声は例えようもなく儚い。

「きみは、いつから電気街にいるの」
 僕は訊いた。
「分からない」
「分からない?」
「ぼくには――」
 リュカは言った。
「――常にこの『今』しか感じ取ることは出来ないんだ。ぼくの中には、過去と未来は存在しない」
「今、って…、じゃあ、きみは僕の名前を、もう忘れてしまった?」
 リュカは溜息をするような仕種を見せた後、
「…カイル。覚えているよ」
「じゃあ」
「――言い直すよ。ぼくの中には『今日』という記憶しか宿すことは出来ないんだ。『昨日』を思い出すことは出来ないし、『明日』について考えることも巧く出来ない。ただ、今日だけ…。だから、明日になったら、きっとカイルのことも忘れてしまう」
 彼の秘密は、僕が予想していたよりも多かった。
 …彼は、本当に僕のことを覚えていなかったのだ。
「けれどきみは、自分の名前を覚えているじゃないか。それは、どうして?」
「歌と、同じさ。僕にとって、ぼくの名前は、ぼくの知る歌と同じに、ぼくという身体の中に根付き、染み込んでしまっているもの。忘れようにも忘れられないし、忘れようとは思わない」
「そうでなければ、きみはきみでなくなってしまうから?」
 僕は訊いた。リュカはゆるゆると首を振った。
「ぼくは、最初からいないのと同じなんだよ。ぼくはこうしてカイルに会った。同じように、幾度となく誰かに出会っただろう。けれど、次の日の朝を迎えると、ぼくはその人のことを綺麗に忘れてしまう。初めから、邂逅などなかったかのように」
「けれど――」
 思わず言いかけて、刹那、脳裏に思い浮かんだ考えがあった。

「きみは『誰かに会った』ということは分かっているんだね」
 そう言うと、リュカは初めてキョトンとした表情を僕に見せた。
「? …うん」
「それに、以前に歌った歌も忘れない。どちらも、きみのものだからだ」
「…うん」
「だったら…、一日が終わる前、眠りに就く前に、歌を歌えばいい」
「歌を…?」
 繰り返す言葉に、僕は頷き返す。思いついた言葉は、一度きりの出会いにおいての、一度きりの手向けになるのだろうか。
「そう、その日に出会った人の歌を。きみは、きみの歌を忘れない。だったら、日々の邂逅を歌にすれば、きみの中から数々の出会いは、記憶はなくならないはず。――だろう?」
 呆気に取られたような、けれど思いもつかなかった考えを知った少年の瞳。
 共に思惑の芽を伸ばす相手がいれば、もっと早くに行き着いた考えだろう。でも、それが確実な手応えをリュカに与えるかどうかの保証はない。明日になれば、彼は僕のことなど再び忘却の彼方に追いやってしまうかもしれない。
「カイルのことも、忘れないでいられるかな…?」
「きっとね」
 頼りなげな彼の言葉も、今だけは少しだけ喜色を含んでいるように思えた。
 眼の前の少年には、明らかに先程までは見られなかった意志の光が宿りつつあるように、僕には見えた。
 そのとき僕が思ったのは何故か、やっぱり、という確信だった。世界の中で、人が表の存在であるならば、僕たちは裏の存在になるだろう。けれど、籠の中の鳥にも、明朗たる意志は存在する。作り物の僕らにも、例外を求める勇気があってもいい。
 少年の耳の位置に付いた、黒い、けれど綺麗な羽が、そして細く白い手が僕に向かって伸ばされる。
 僕は少しだけ驚いて、けれどその手をそっと取り、指を絡めた。
 それは、僕が見た幻影の夢と同じ仕種だった。僕はリュカの手を握って、頷いた。
 僕の顔を包むように、彼の翼が伸ばされた。それは何処からか射した光で色が抜け、もしかしたら純白に見えたかもしれない。

 月が隠れるフォールン・ナイト
 夜空の果てに堕ちていく僕ら
 奇跡なんてもう必要はない
 夢は語りつくしてしまったけれど
 きみに会うために僕は行くのだろう…

 それからほんの少し他愛のない話をして、僕とリュカは別れた。
 去り際、後ろから小さく歌う声が聞こえて、僕は微かに笑った。
 カナリアの少年との少ない遣り取りは、それが全てだ。


 それ以後、僕はリュカに会っていない。
 あの夜の道端に何度か足を運んでみたけれど、少年の姿を見つけることは出来なかった。きっと、他の街に流れていったのだろう。やはり彼は吟遊詩人だった。
 再会を強く望む思いがないわけではないけれど、今の自分の位置を捨ててまで彼に会いに行こうとは思わない。
 それが、僕らの日常だからだ。
 でも、時折、僕は夢を見る。不思議と続く歌には終わりがなくて、それは実は僕が歌っているのではないかという錯覚を呼び起こすのだけれど、そればかりは原因が分からない。
 そして、しばらくの刻が過ぎた頃、ようやく気付いた。
 カナリアの全てが自身の存在を人から消しているのならば、彼らに会えるという者たちは皆、僕のように人ではないことになる。
 それは同時に、カナリアを求めた人々も、実は人でなかったことにならないだろうか。
 人でないものが、人でないものを傍らに置きたいという願い。それがカナリアを占有しようという捩れた思いに変わったのかもしれない。だとしたら、人はそれを知らず、ただカナリアの歌声に溺れていく人形達の狂っていく様を、眉をひそめて見ていたのだろう。
 人は人形に倒錯し、人形は人形に傾倒していくのだろうか――。
 …真相は、まさに夜という闇の中だ。
 僕は一つ、思い出す。
 カーライルは僕に言った。カナリアには数えるほどしかお目に掛かっていないから、また会ってみたい、と。
 …カナリアに会っているのだ、彼は。
 ということは――、
 もしかしたら、という直感は、消えずにわだかまり続けている。
 けれど、僕は敢えて彼に問おうとは思っていない。
 彼が人形師を続けている何よりの理由は、そこにあるのかもしれないから。

 ――そういえば、こんな後日談のような話がある。
 ある日、僕がいつものように『エクリプス』の店先にやってくると、入り口の戸の前に何か、小さな黒いものがあるのに気付いた。近づいてよく見ると、それは一匹の黒猫だった。
「どうしたの? うちのお客さんかな」
 そっと抱き上げても暴れたりせず、僕の肩越しにキョロキョロと辺りを見ている。
 それが誰かの姿を探しているように見えて、僕は軽く笑った。
「リュカ」
 なんとなくそう呼んでみる。黒猫は僕の顔を見上げて、ニャン、と鳴いた。
 僕の声に反応しただけだったのか、リュカ、という名前に反応したのかは分からなかったが、僕は少しだけ嬉しくなった。
「取り合えず、入ろうか…」
 猫を抱えたまま、
「こんばんは、マスター」
 そう声を掛けて店に入ったが、返事はない。カーライルは留守だった。
 鍵も掛けずに無用心な、と思いながら椅子に座り、猫を撫でながら主人を待つことにする。
 猫の毛はふわふわとして柔らかく、悪くないな、と僕は思った。
 僕よりも余程生身の存在であるだろうその猫は、いつかのカナリアの少年の持つ翼と同じ感触を、僕の指先に与えた。
 少しだけ回帰の念に包まれる。
 カチャン、とレバーを引く音がして、やおら扉が開いた。
 その人物は店内に一歩足を進めた途端、僅かに表情を歪め、くしゅん、とくしゃみをした。
 結局、本人の言う通りにアレルギー持ちだった彼は、鼻先を擦った。そして小さく呟く。
「…ここ、猫がいるね」


("Mischievous eye's Jade" Be closed.)


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