フォールン・ナイト


 電気街の夜は、今日も眩しい。
 都心から軸を外れた市街は、一日中喧騒の止まない異常さがいつの間にか平静にすり替えられている、奇妙な空間の保有地である。
 店々の軒先には色鮮やかな電飾が並んで光を放ち、地面を真昼のように照らし出している。
 人々は夜間照明を照明と思わず、夜の明るさを当たり前のものとして知覚してさえいる。本当なら夜空に瞬いているはずの星々が見えないのは、地上が明るすぎて空の闇を白く照らし出し、本来の闇の色に見えなくなってしまっているからだ。
 この地で生まれ育った者は、きっとモニタ越しでしか本当の夜空を知らないだろうし、知ろうと思わないのだろう。
 それはある意味幸せなことだし、夜空の一角を手中に収められる術を人は持たない。
 だがそれは、人が闇を恐れ過ぎるあまりに無意味な発展を遂げた技術の成れの果てとも言えるのかもしれない。
 人工的な安堵を生産する不安定さに誰もが気付かず、偽りの享受を当たり前のものとして受け止めている。
 …或いは、そんなことは誰しも先刻承知で、その上で今だけの支配の波に溺れているのだろう。
 危惧すべきなのは、実際に人が、地上の支配者なのだと誤解してしまったときの、自然からの裏切りだ。
 高層ビルディングの窓から漏れる室内の明かりは何故だか細々として見え、高きの窓から見下ろすはずの優越性もない。
 屋上に吹く風は強くも温く、怠惰なことだろう。
 賑やかに人々の声が空気を伝う街並みの雰囲気とは全くの対照的だ。
 コンクリートの地面の下には様々な幹線と導線が縦横無尽に駆け巡り、それらのライフラインを整備し、また新しく張り巡らせていくエンジニアの機械恩音がいつも地上に響いてくる。それも電気街特有のサウンド・エフェクトで、今更それらを騒音として感じる者はいない。
 その地下ですら、始終人が出入りする空間が多いために、照明設備が整っている場合が殆どだ。
 夜の地下は、地上よりも静かな明度を注ぎ込む。
 どうして人は闇を恐れるのか、僕は未だに理解出来ない。地上を人工の光で覆い尽くすことにより、一時の覇者となることに成功している彼らは、しかし意識して闇の恐怖を忘れずにいようとしているように思えてならないのだ。
 それは多分、人が完全な闇を知らずに生きていることが多いからだろう。全ての光を遮断された世界を知らないから、未知の暗黒が身体を侵食する予感すら考えるに及ばない。せいぜいが、皆既日食の余韻にも似た震えを感じるだけだ。
 眠らない街から自宅に帰り、柔らかな布団の中に身体を滑り込ませ、瞼を閉じて眠りに就こうとする瞬間に、彼らはようやく真の闇の片鱗を感じ取ることになり、暗黒が支配する刻を恐れ始めることになるのだ。 それが、人の愚かなる所以。
 そんなことは、また明日の朝になれば考えずに済むことだけれど、僕はやはり考えずにはいられない。
『Human has thinking reed』とはよく言ったものだ。

 夜の空気は酸素が濃くて、それで逆に苦しいような気分にさせられる。それはどんなに人工物で密集したこの街でも同じだ。
 それは多分、人が夜という時間帯の中に『夜』という色を見出そうと必死になる本能にも似た渇望なのだろう。
 僕は通りで紙コップに入ったコーヒーを買い、歩きながら飲んだ。
 これも一種の闇色だろうかと思わせる暗闇色の液体は熱くて、息を吹き掛けて冷ましながら飲む。
 地上の季節は冬で、その寒さだけは夜間照明でも変えることは出来ない。僕は少しだけ可笑しくなった。
 コートの裾をなびかせながら、僕はてくてくと歩いた。
 既に店仕舞いをし、シャッタを下ろした店の前に、流れ者の吟遊詩人や街に住む音楽好きの青少年が直座りをし、或いは立って、エレクトコードを掻き鳴らし、もしくはカペラで歌を歌っている。彼らも電気街の名物の一つだ。
 彼らは生業として歌を歌っているのではない。それは興味というカテゴリに含有されるものでもあるのだろうし、けれど、その価値を認めてもらいたがっているのもまた事実だろう。
 少年たちの側に時折人の壁が出来上がり、聴衆は静かな賛辞の拍手を贈る。
 声一つで人の価値が決まるわけではないだろうけれど、その中には僕もハッとさせられるようなセンテンスが紛れていたりする。感動というのは、させられるのを待つのではなくて、するものなのだと誰かは言っていたけれど、真実の多くは偶然の中に隠れているものだ。
 即興の歌は、歌詞と曲のどちらが先に浮かんでくるのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、僕は彼らを横目に道を行く。
 聞く者に元気を与えるような明るいものもあり、かと思えば、歌い手の心情をありのままに表出させたような重苦しい、けれど優しい歌もある。それらを聞く人々も千差万別、一人一人に向けて律儀に拍手を向ける老人もいれば、何も聞かないうちから罵声を吐き掛けて立ち去る男の姿もある。
 思いを普段表に出せない者は、やがてその方向すら忘却の彼方へ追いやってしまう。
 そうした方が楽に生きられると言う者もいるし、けれど街頭の青少年の存在がそのまま、その言葉を否定している。
 結局…、人は他人に自分の存在を見つけてもらいたがっているのだ。けれど、自己を表に出せるだけの勇気と技能があることは正当に評価されるべきだと思う。なにがしかの表現にまつわる議論があるときに最終的に行き着く場所は、いつもそこだ。後は、それを受け止める者の質が問われることになる。
 人通りが少なくなるにつれて、吟遊詩人たちの姿も等しく消えていく。人が集まるところに、人を求める姿があり、その逆もまたしかり。わざわざ人気の少ない通りを選んで歩く人は珍しいだろう。 表通りに比べれば、店々の密集度合いから言えば遥かに数が多いとはいえ、それは口数が示すようにあくまで量の問題であり、明確な用事がなければ徘徊するには適さない。
 夜の『明るい闇』が本当はあまり好きではない僕などは、中途に仄明るい裏通りを歩くことが意外と好きだったりする。
 雑踏が塵芥に、喧騒が騒音に成り代わる瞬間の恐ろしさを僕は知っている。
 それはある種の怯えであり、多少自分が臆病であろうとも、その程度の妥協は許されてもいいはずだ。

 ふと――。
 目標も定めず辺りを眺めていた僕の視線が、ある一点を目に留めたまま固まった。
 街灯の灯火以外の電燈は既に消された通りの中途。中心街よりも人工の光が少ないここでは、月の光も少しは届いているだろうか。
 コツコツと響く足音で一定のリズムを刻む僕の前方に、一つの小さな影があった。
 一人の少年が、そこにはいた。
 十二、三歳くらいだろうか。丈の長いコートを見に付け、壁際に背を預けて座っていた。真っ白なコートは彼の身体をすっぽりと包み込み、彼自身が腕で自分を抱くような仕種を取っていて、小さな身体を余計に小さく見せている。
 ボタンの代わりに帯革のバンドで留められたコートの裾が、地面に広がっている。
 少年の足元で途切れたそれは、しかし道路に向かってスッと伸びているように思えた。
 それは、彼の靴の裏…、コートの中に作り出される影が、更なる闇を作り出していたからだ。
 光の加減か、コートと影、それだけなのに、それを見た僕の眼にはそんな不可思議な情景が重なった。
 銀色の髪と、大きくも虚ろな瞳。表情のない、陶器で出来たような真っ白な頬、コートの袂から覗き見える細い指。
 そして、彼の顔を見たとき、僕が足を止めた理由が分かった。
 少年は、呟くように唇を小さく動かしている。そこから聞こえてくるのは、歌だった。

 Come here if you want to know real truth
 All lie are tricking and treating to you
 But I am a dummy doll
 Anthropomorphic tale are printing guilty...

 言霊というものが存在するならば、そのとき彼の唇から零れ出していたのは、まさにそれだったのだろう。
 そう、彼は歌ってはいなかったのかもしれない。その歌は彼の意思に関係なく、喉から溢れ出していた、とう感じだった。
 言葉の意味を理解する以前に、僕の身体は震えを帯びていた。
 それは果たして素直な感動だったのか、それとも初めて感じる歌声への畏怖にも似た心情だったのか。
 後になって考えてみれば、恐らく一番近い感情はこれだろうと思い当たるものがある。
 ――僕は、泣きそうになっていた。

 人間に心という名の臓器はないけれど、少年の歌声は聴覚を介することなく、直接に僕という名の心に向かって発せられていたに違いない。…それとも、彼の歌声を聞いたのが僕の心だったから、これほどまでに心が揺さぶられた、と言い換えるべきだろうか。
 初めて聞く種類の歌声だった。感受性の豊かな人が同席していたら、可違いなく彼は涙を流していただろう。
 形容に難しい。ただ言えるのは、何処までも澄んだ声だったこと。澄み切った…、澄み過ぎた声だったこと。
 声帯の震えすら感じさせないような、起伏の僅かな、滑らか過ぎた音律。
 それなのに作り物めいては聞こえず、音叉の如く耳の奥に余韻を残す。
 これを歌と呼んでしまうのは、彼に対して失礼なのかもしれないと思う。
 そして、そんな声の持ち主に、一つだけ心当たりがあった。
 息をするのも忘れていた僕が彼に近づくと、その思惑は的中する。
 僕が近づいても、少年は僕に視線すら向けなかった。今の彼の意識は、ひたすらに内側に向いている。
 彼を改めて見て、僕は一瞬息を呑んだ。
 少年のシルエットが妙に大きく見えたのは、その輪郭に影が加わったのみではなかった。
 彼を覆うコートの、更に外側にあった、左右に二つの対称的な陰。
 …彼の耳には、翼が付いていた。一組の、黒い羽が。
 冗長な説明は僕には必要なかった。

 ――カナリアだ。
 直ぐ様、僕は眼の前の少年をそう判断した。

 雄のカナリアは飛ぶことが出来ず、その代わりに美しい声で歌を歌うことが出来る。
 雌のカナリアは話すことが出来ず、その代わりに自由に天を駆け巡ることが出来る。

 カナリア。人と鳥との融合物を、そう呼称する。
 固有名詞で呼ぶのは、人との成功例がカナリアのみでしか挙げられないからだ。
 遺伝子情報が氾濫する今日、人の内部の遺伝子も、その姿は真実の姿と相違しているという。
 純粋な人間は年々、確実に数を減らしているという噂が漂った時期もあった。それが真実なのかどうかはさておき…。
 遺伝子情報工学の発展に伴う、遺伝子融合により生み出された命に対し、不当な差別は世に存在しない。そんなことは無意味だからだ。それどころか、カナリアの声と翼のように、有益な要素も数多く報告されている。
 もっとも、人にとって害をなす存在となった者もいないわけではない。電気街における光と闇のように、どちらかが当たり前でどちらがそうでないかなど、実際に日常に駆り出され、平生として違和感があるか否か、という天秤に掛けられるのだ。
 僕の記憶にカナリアの存在があるということは、すなわちカナリアが世に認められた『成功例』の一つだということで…、しかし、ではこの少年は何処からやってきたのだろうかと思うに至り、その瞬間、僕は再び震えた。
 少年の瞳と、僕の視線がぶつかったからだ。
「――あ…」
 初めて、彼の口から歌声以外の声が出た。
 先程まで歌っていた彼はまるで意識を手放していたかのようで、瞳に微かな光が宿る。
 それは多少甲高かったが普通の少年のもので、しかしその中に怯えを含んでいたのを感じ取り、僕は少し慌てる。
 ぺこりと小さく頭を下げる少年に、僕はやはり小さく拍手を贈った。
 彼は再び俯いてコートの衿に顎を埋め、僕はまた歩き出した。
 多少の名残惜しさがなかったわけでもないが、街角の吟遊詩人に向ける眼差しは、過度の干渉ではなく些細な微笑みを。これが不文律だ。例え相手がカナリアであろうとも、それは同じだろうと僕は思った。
 けれど不思議に思ったのは、あれほど綺麗な歌を歌う少年の周囲に、歌を聞きに立ち寄る者の姿がなかったことだ。カナリアの歌ならば、必然的に存在すら稀少なのである。それなのに、まるで彼は影のようにひっそりとあの場にいた…。
 気付けば僕は、先程彼が歌っていた歌を復唱していた。

 本当のホントを知りたいなら、おいでよ
 全ての真実と虚構で出迎えよう
 けれど僕はダミー・ドール
 人に似た物語が罪を紡ぐ…

 自分が歌を歌うことが下手だと思ったことはなかったけれど、カナリアの少年の歌唱力との違いに愕然として、僕は少し笑った。


     □   □   □


 三日後の週末――。
 僕はその日も三番電気街を訪れていた。
 三番街には機器に関するエンジニア御用達の店が多い。それも、大通りから少し奥に入った個人営業の店がよく知られている。
 つまりは、専門家による専門店だ。ネジ一本から、場所によってはロケットまで売っている。というのは多少大袈裟な話で、工業用機械の一番小さな部品を扱ったり、個人の注文に応じてマシンの鋳造をしたりするのが普通。
 だから、そういった小さな店をファクトリィと呼んだりもする。
 ショップと呼ばないのは勿論皮肉だし、中には本当に大規模な規格生産をしているところもあるから、まあ嘘ではない。
 他の店がそうであるように、『エクリプス』も通りから一本横に入った裏通りの一角に居を構えている。
 『失墜』という名の店とは変わっているが、同じ言葉で『浸食』とも読むことが出来る。
 店主がどちらを意図したのかは測りかねる。
 元喫茶店だったという建物をそのまま使った外装は、けれど白かった壁もグレイになり、いかにも疑わしい。
 茶色い扉のレバーを引くと、音もなく開いた。扉にはいつも新しい油が注されていて、力を入れなくてもスッと開く。
 毎日扉に油を注す気遣いが出来るなら、少しは壁を綺麗にしたらいいのに、とも思うけれど、僕はこの感覚が結構好きだ。
 扉を開けた正面に、一体のビスクドールが客を出迎える。硝子で出来た綺麗な眼をした少年は、蝋人形のように関節も綺麗に埋められて、一瞬見ただけでは感情を失った人間に相違ない様相をしているように見える。
 僕が初めてそれを見たときには、あまりにリアルだった――もう少し日に当った方がいいんじゃない? と言いたくなるくらいに――から正直驚いたが、少年の姿を精巧に象ったその人形は、本当に少年の型をとって作られたらしい。
 それを聞くと今度は、もしかしたら少年の型を取っただけではなくて、本当に人形の中に少年が埋め込まれているのではないかと疑心に思ったものだ。
 ――その作者は、『エクリプス』のマスターであるカーライルだ。
 略称が僕と同じ名前のカイルだから、僕は彼をマスターと呼ぶ。

 看板少年の横を少し行くと、厚紙や鉄製の箱が彼方此方に積まれている部屋の中に身を置くことになる。
 倉庫よりも雑然とし、納屋よりも規則的に置かれた箱には、先の人形に使われていたような様々な部品が詰め込まれている。
 硝子玉や琥珀球は瞳に、塗料や人工毛は肌と体毛に用いられる。
 細い針金や合成樹脂は勿論、完成の暁には少年たちに着せられる衣服までもが既に買い込まれているというから準備は万端だ。
 カーライルは人形師なのである。
僕は言わば助手のようなもので、週末になると彼の店を訪れ、手伝いをすることになっている。
「こんばんは、マスター」
 店の奥に向かって声を掛けると、
「どちらさま?」
 雑多なもので埋まった隙間から、声だけが聞こえた。
「カイルです」
 僕は返事をして、元はカウンターだった棚の脇に並んだ椅子に座った。
「ああ、どうぞ、入ってきていいよ」
「もう入ってます。…何を探してるんですか」
 箱を探るゴソゴソという音が引っ切り無しに聞こえてくる。
 だからいつも整頓しろと言っているのに。カーライルはその小さなカオスを好むようなのだ。
 箱を開け閉めしつつ、彼は答えた。
「サッカリン」
「サッカリン? 燐灰石(りんかいせき)ですか」
「いや…」
 ふう、と溜息をついて立ち上がり、腰に手をついて彼は僕を見た。
 黒いシャツとパンツ、それに焦げ茶色の髪もが埃で斑色になってしまっている。長身も形無しだ。
「甘味料だよ。コールタールから取れるものでね、栄養がないから病棟患者用の食事を作るときの調味料に使われたりする」
 どうしてそんなものがここにあるのだろうと僕は思ったが、実際には何も言わなかった。
「何に使うんです」
「うん…、僕じゃなくて、お客さんの注文。何処かにあるのは分かってたから、探しておきますって応えたんだけどね…、朝から探しているのに、一向に見つかってくれない」
 まるでそのサッカリンとやらのせいにするみたいに言って、カーライルはまた溜め息をついた。
 僕は彼の方にゆっくりと近寄っていった。
アレルギー持ちの人だったら確実にくしゃみをしているに違いない、というくらいに埃が舞っている。
「だからいつも言っているじゃないですか」
「なにを?」
「一度思い切って店の中のものを整理し直しましょう、って」
 そう僕が打診すると、カーライルは辺りをざっと見渡し、
「ああ、いつも言っているね」
「ふざけないでください」
「ふざけていないよ。そうは言ってもね…、僕も色々忙しいんだよ。貴重な時間を出来るだけ無駄に使いたくない気持ちは、きみにも分かるだろう?」
「それにしては…、朝から探索し続けているんでしたよね?」
 それはつまり、今日は他の客が来ていないことを雄弁に物語っていた。
 …もっとも、客が来たのだとしても、こうも雑多な室内を見たら踵を返したくなること請け合い、というものだろう。
 …それとも、サッカリンを見つけるのに夢中になり過ぎて、客のノックに気がつけずにいた、なんてことだったのではないだろうかと、僕は少しだけ『エクリプス』の行く末が不安になる。
 だから僕は申し出た。
「手伝いましょうか」
 勿論、カーライルのためなどではなく、やがて訪れる――ことを期待する――客を思ってのことだったが、彼は首を振った。
「いや、いいよ。片付かなくなったら困るから」
「なんですか、それ…」
 僕はムッとする。それをみた店主は苦笑いをして、
「冗談だよ」
「面白くないです」
「それはひょっとして、片づけをしようとすると何故か逆に散らかってしまうという自覚がきみにもあった、ってことかな」
「それは――、…そうです」
 むっつりとしたまま僕が頷くと、カーライルは感慨深げな顔つきで、
「そういうとことだけ、きみは僕に似たんだねえ」
「ちっとも嬉しくないですよ。大体、サッカリン…でしたっけ。それ、本当にあるんですか。僕には覚えがないです」
「それは間違いない。ただ悲しいかな、誰の記憶回路にもキャパシティというものがあるんだね…。自身の能力を過信すると、良くない結果が待っていることもあるってことさ」
 ちっとも言い訳になっていない。
「それって結局、忘れた、ってことじゃないですか。僕はマスターとは違います」
 僕が言うと彼は、
「む…、マスターに向かってその口の聞き方はないだろう。そんなきみにはコーヒーの調達に行ってきてもらおうか」
 最後には全く脈絡のないことを言った。
「…了解しました、マスター」
 次第にどうでも良くなってきて、格式ばって僕も言う。

 コーヒー豆を買いに表通りへ行き、その帰りに遅くまで開いているペットショップを覗いていった。
 小さな犬や猫の鳴き声を聞きながら店の奥に進み、店主の青年と雑談をした。彼は僕が訪れるといつも、店番に犬の一頭も飼ってはどうかと勧めるのだが、カーライルがアレルギー持ちのため、やむなく断っている。やむなく、というのは、カーライルがそれを根拠にして他の動物も遠ざけているから。
 そもそも、彼が本当にアレルギーなのか僕は確かめたことがない。
 いつか道端で犬猫を拾いでもしたら、絶対に連れ帰ってやろうと心に決めていた。
 籠に入った鳥を眼に留めて、ふと、あの少年はどうしただろうと僕は思い出した。カナリアの少年である。
 彼に会ってから、数日が過ぎたけれど、彼はどうしているだろう。
 姿かたちは違えども、最初は、何処の街にもいる吟遊詩人だと思った。
 一瞬足を止めたとはいえ、結局歩きながらそちらを眺め、通り過ぎただけだった。
 しかし、夜ベッドに入る頃になって、急に耳の奥にその歌声が蘇ってくるのだった。それも、ただあのときの歌が浮かんでくるのではない。不思議なことに、ワンフレーズしか聞くことは出来なかったあの歌の、その続きが。

 It is too early that we are an adult
 The dream in order to end of dreams
 I would like your future
 But he lives through only one day...

 それはどう言えばいいのだろう…、とにかく普通ではなかったのは確実に言えることだ。

 そもそも僕にとって、夜の眠りというのは、工場の機械が操業時間を終えた夜になると静かに眠るように、ただ静寂の刻を過ごして明日と言う次の刻を待つ儀式のようなものであって、夢も見ない。…そう、実質的には電源が切れるのと同じ現象だ。
 僕は夢が理解出来ないタイプの思考回路を持っている。こればかりは先天的な性能というもので、つまりは説明を受けても論理的な判断がし切れないということで…。自分でも、そのことについてはとうに諦めている。
 夢を見ないのだから、それについて幾ら追求しても仕方のないことだろう。
 夢って何ですか、そうカーライルに訊いても、彼も多くを知らない。
 言語辞典を見れば、『眠っているときに、現実にあるように色々な物事を見たり聞いたり経験したりする現象』と書いてあって、けれど僕にしてみれば、それは真っ昼間に眼を閉じて空想に耽るのとなんら変わりないようにしか思えない。
 ある意味、それは違う意味での『夢を見る』ことらしい。先の辞典にも、『実現不可能な儚い望みや希望、分不相応な考えを持つこと』と載っていた。そういう説明を見てしまうと、夢にはあまり良いイメージが持てなくなってしまう。
 カーライルは元々、人形を作っていれば他に何もいらない、という幸せな人間だ。
 僕は彼の助手であることを別段、誇りに思ったりはしないけれど、こざっぱりとした性格は割と好きだ。
 ともかく、それまでは身体を休める意味でしかなかった夜の眠りだったのに、カナリアの少年の歌を聞いた後、僕は初めて夢を見た――厳密に言えば、見たような気がした――のだ。

 イメージで許されるのなら、その感覚を説明しよう。
 夢の説明というのは、聞き手にとっては普通に話をするのと変わらないように思えるのだけれど。
 ――多分そこは、三番電気街の片隅…、そう、僕が彼を見掛けたあの場所だ。
 カナリアの少年は、同じ姿で、同じ姿勢で、壁際に影のように座っていた。
 そして彼は、やはり呟くような仕種で歌を歌っていた。あの虚ろな瞳と、儚げな首の傾げを伴って。
辺りには誰の姿もなく、僕だけが彼の歌を聞いていた。それが、先の『歌の続き』だ。
 短い旋律を耳にして、僕は自然と少年に拍手を贈った。
 彼は乏しい表情で僕を見て、僕はまた、あの時と同じようにぺこりと頭を下げるのだろうかと、なんとなく思っていた。
 けれど、少しばかり予想とは違っていた。
 少年の耳の位置に付いた黒い、けれど綺麗な羽が、そして細く白い手が僕に向かって伸ばされる。
 僕は少しだけ驚いて、けれどその手をそっと取り、指を絡めた。
 僕の顔を包むように、彼の翼が伸ばされた。それは何処からか差した光で色が抜け、もしかしたら純白に見えたかもしれない。

 …それだけだ。
 歌が聞こえ、少年に触れ、それから何があったかと訊かれれば、何もなかったと答えるしかない。
 夢とはそんな程度のことでしかないのかと僕が思ったのは言うまでもないことだが、それはとても奇妙なことだったし、僕の頭はそれに対し混乱を覚えていたのも確かだった。けれど同時に、新鮮な感覚と共に、歌は心地良い眠りを誘うのだった。
 現実で起こったわけでもないことが記憶に残るということは、僕にとって多少気持ちの良いものではなかった。
 でも、人間誰しもが『夢は儚いものだ』と決まり文句のように言う根拠が、少しだけ僕にも分かったような気がする。
 ありもしないものを求めてしまうのが人のサガだとしたら、それが僕にも少しはあったということだろうか。
 しかし、僕が一番興味を持ったのは、夢を見ていたらしいそのときの僕がどんな顔をしていたのか、ということだった。
 …いつしか、僕の頭から、彼の歌声は忘れられないものとなりつつあったから。


後編 >>

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