陽炎少年は水上に舞う


「死神――」
 その言葉を聞いて、僕は背筋を詰めたい指で撫でられたような戦慄を覚える。
 人を死に誘うという神。それが、僕の眼の前にいる青年なのだろうか。
 言葉を失って身を僅かに退き、思わず彼を睨むと、彼はうっすらと破願した。
「俺が死神なら、きみも死神だ、ということだよ。死者の霊を祀って神仏に仕立て上げるだろう? それを皮肉ってのこと…、『死に神』というわけさ」
 冷静になって反芻すれば、神も仏もない現実を僕たちは経験、体験している最中なのだ。青年の言うことは至極もっともで、…だからこそ、少し悲しくなってくる。
 青年は先程僕にしたように、そっと頬に触れた。
「だから、現世の人間にとっては、俺たちの存在は無いのと同じだ。俺はこうしてきみに触れることが出来るけれど、ここに臥している生身のきみには触れることは出来ない」
 そう言うと、彼は今度は僕――もう僕ではない――の頬に指を伸ばした。すると、長い指は呆気なく肌を摺り抜けて、手首までが通り抜けてしまう。手品でも見ているような光景で、気持ちの良いものではなかった。」
「俺たちがいる世界は、未だ現世だ。しかし、俺たち自身は現世に身をおく術を持たない。動かすことが出来るものには、こうして触れられない定めにあるらしい。ここはまだ死後の世界ではないと言ったのは、そういうことだ」
 万物は定例に則り即物を成し、刻限は有限に進みつづける、ということか。
「要するに、狭間なんだよ」
「狭間」
「そう。もう生に縋り付くことも出来ない。かといって、姿形が魂だけになってしまったわけでもなく、未だに姿を映し、現世に執着している自分たちがいる。実質的には生きても死んでもいないようにも思える、どの世界にも属さない不安定な精神世界」
 青年は僕を見つめながら言う。
「臨死体験というのがあるだろう? 今の俺たちの身体は、言ってみれば幽体、それが俺たちの状況だ。違うのは、俺たちはもう現世への帰還は出来ないということ。やがて訪れる『死という無』を待つための、猶予期間のようなものだ」
 僕は改めて自身の死と、消えてはいなかった生への執着を感じ取る。「完全な死、つまり無への消滅がいつ訪れるのかは、分からない。けれどそれは、いつか確実にやってくる。今、この場所に俺たち以外の半死者がいないのがそのいい例だ――そう、」
 彼は一瞬言葉を切って、何処か遠い眼をした。
「遅かれ早かれ、俺たちは消滅する運命にある。その時を決めるのは、他でもない自分自身なんだ。その条件は分からないが、それが心次第だと言うことは想像に難しくない」
 それは、生者が死を恐れるのと同じ、またはより死に近しい立場だからこその恐れ…。
「つまり、簡単に死ねるということだ…、俺もきみも」
 死を甘受したとき。それとも、本当に、諦めの思いが心に満ちたとき。
 真の闇が自身の全てを侵していくのだろう。
 それを思い、身が震え、僕は慌ててかぶりを振った。
 考えてみれば、僕は今の自分を知るのに精一杯で、その傍らにいた青年のことについて意識を向けていなかったことに気づいた。それだけに、一度湧きかけた不信感は直ぐに僕を包もうとする。
 そう、彼は僕の名前を知っていたのだ。けれど、
「僕は、貴方の名前すら知らないんだ」
 僕は呟いた。
 彼は困ったように微笑むと、
「葵、という名前に聞き覚えはないかい」
 そう問うた。その瞬間、脳裏に過る何者かの影。
 直ぐにそれを思い出した。
「――まさか」
 それは、僕の従兄の名前だった。僕の友人の和那の兄と同い歳で、叔父の息子。深い付き合いが合ったわけではないが、和那の兄の傍にいつもいたから、僕にも覚えがある。
 …けれど、一昨年、突然亡くなったのだ。
 半ば、それは遠い昔のことのように思っていたけれど。
「葵さん――」
 その名を呼んだ瞬間、自分でも不思議に思ったほど、身体から力が抜けるのを感じた。
 僕はおそらく、同じ種類の人間を見つけて安著したのだろう。…たとえそれが常人にとって不謹慎な思想だったとしても、今の僕たちにはその安心感は必要なものだったのに違いない。
「思い出してくれたかい」
 ただでさえそうなのに、相手が自分の知る人物だと分かって、僕は少しだけ嬉しさを覚える。
 危うく泣きつきそうになるのを、ぐっと堪えた。
 彼は、僕の知る彼とは随分と印象が変わっていた。死者に成長の概念はなくなるのだろうが、何処か悟りめいた雰囲気が、原因かもしれない。もっとも、静かで優しげな面持ちは変わっていなかった。
「どうして、葵さんが僕の所に…?」
 多分、葵さんも僕と似た境遇の持ち主なのだろう。そう打診を込めた問い掛けをすると、案の定彼は、軽く微笑んだ表情のまま一つ頷いた。
「和那くんのことを思うと、俺も遣り切れなくなるよ」
 彼はそんな口火の切り方をした。
「見て…いたんですね」
 僕の、たった唯一と言ってもいい心残りは、他でもない和那のことだった。
 日常とあらば、様々な経験を経て生きていくものであり、その中には苦渋に耐えないことがあってもおかしくはないだろう。けれど、僕は自分の目の前で和那に泣かれるのが一番つらかったのだ。
 彼の隣にいつも自分が席を置いたことで、僕たちがお互いに抱く感情は、ある種他人を排斥するに足るものにまで至っていたように思える。辛苦を共にしてきた間柄だったからこそ、僕は不甲斐ない自分自身を責めないよう抑えるのに必死でいる。
「仕方がなかった、と言っては無責任にも聞こえるだろうが、彼は事実を受け入れる強さを持たなければならないんだ。過多な信頼は、依存に繋がる」
「分かっています。僕は分かっているつもりです。…けれど」
 肉体的な死の段階を越えた僕だから、不合理さを排除してでもこの場に留まりたい思いがあったのだ。
 未だ自分の置かれた環境に半信半疑ではいるものの、開き直ってでもそれを受け入れなければならないことに、僕は自身のこれからよりも先に、親友の今を思った。
 せめて今は、彼の側にいたい。
 彼に気づいてもらえなくても、せめて、傍らで見守っていたい。
 その時には既に、僕は心を決めていた。それが許されるのなら、他の全てを捨ててもいいと。
 胸の奥から吐き出すように言うと、葵さんは眼を閉じ、
「俺も同じなんだ」
「え」
 ゆっくりと溜め息をついて、「俺はね、あれからずっと綜弥(そうや)の傍にいたんだよ。きみに会えたのは、そのためだ」
 彼は僕にそう告げた。和那の兄の名を。
 葵さんは、僕が和那に抱いていた思いと全く同種の感情を持って、現世に留まりつづけていたのだ。たった一人の人を思う気持ちを感じ取り、僕は少し切なくなった。
「俺もね、未だに時々思うんだ。これは長い夢の中なんじゃないかって。夢を見ていても、痛みは感じるだろう? 現実的な夢、なんて言い方はおかしいけれど、そうだったならどれだけ幸せだろう、何度も思った」
 彼に手を引かれて立ち上がり、僕は長身痩躯の青年を見上げる。
「けれど、そこはどこまでも続く現世の真実だった。肉体を離れてしまった以上、睡眠欲、食欲、性欲は消滅する。残るは、何かを思うこの心だけだ」
 そう言って葵さんは胸に手を当てた。僕と同じ経緯によって鼓動の途絶えた心臓。
「それすら持ち合わせない者は、直ぐ様本当の死へ送り込まれるだろう。むしろ、それが段階としての死だ。俺たちは例外に当たるんだよ」
「僕は…」
 迷いがなかったとは言えない。
 怖かったのだ、きっと。…でも。
 一瞬の諦めが無に帰すのであれば、その一瞬までの猶予を許されたい。神でも仏でも、誰でも構わないから、何も出来ないとしても、和那に囁き掛けたい。

 僕は以前、和那の背中に付いた綿毛を、彼の背中から生えたんじゃないかとからかったことがあるのを思い出していた。彼は直ぐに僕の冗談を窘めたけれど、本当のことを言えば僕は、それが本物ではないかと一瞬驚いていた。
 その前夜、夢を見たのだ。森の奥深くの、湖のほとりに僕は立っていた。
 前を見ると、和那が湖面、透き通った水の上にすっと立ち、僕をじっと見つめていた。その背中には純白の羽が広がっていて、僕は溜め息をつきそうになった。
 それがあまりにも綺麗な白だったから。
 彼の名を呼び、手を伸ばすと、和那は微笑んで僕の手を取った。
 ふと、悲しそうな顔をして、和那は言う。
 翼があっても、僕は飛べないんだ。
 何故だか急に切なくなって、僕は彼を抱きしめた。
 もう二年も前のはっきりと覚えているのは、その中に何かの予感があったからなのかもしれない。

 今の僕には天使の羽根も、命の灯火もない。
 何も出来ない、本当は無いのと同じ存在。
 けれど、僕は和那の姿を追って、一歩踏み出した。
 たとえあの夢が僕の想像の産物だったとしても、それは、きっと――。


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