陽炎少年は水上に舞う


「――こういうときだけ、きみは、唐突で、身勝手なんだ…」
 和那(かずな)は、僕に向かってそう呟いた。胸の中から搾り出すような、何処か痛々しいまでの声で。
 そして僕はそれを、ぼんやりと耳にしていた。聞いていたのではなく、聞こえていた。
 夢を見ているような感覚だった。けれど、意識は途切れなく続いている。
「教えて欲しかったのに、もうきみはいないなんて――」
 途切れ途切れにそう和那は僕に語り掛けていたけれど、彼は僕が聞いているとは思っていないのだろう、そんなことをふと思う。声を出しているのは彼だけだ。
 誰もいない、広い和室。規則的に敷き込まれた畳。陽に当たって、緑蒼の色を思わせる不思議な香り。中庭に面した、開いた窓から風が注ぎ込み、和那の柔らかい髪を揺らしている。
 残暑もとうに過ぎ去り、うっすらと冷えた空気が風に乗って外界から漂ってくる。それはこれから訪れる秋の前哨を匂わせるもので、僕は少し切なくなった。
 奥座敷の片隅に敷かれた、一枚の布団。優しい風が吹くその場所で長いこと使い込まれているから、きっとその下の畳の色は、他の畳よりも緑の色が濃いだろう。…僕の命を吸って。
 そこに寝かされた、僕。
 彼の枕元に正座している、和那。僕の親友。
 仰向けになって、天井に眼を向けて、…俯いた和那の顔が僕の視界に入ってくる。学校に行く準備を終えていたのか、黒い学生服をしっかり着ていて、僕はいつものように詰襟の止め具を外してやりたくなる。肌を表に晒すことを好まない彼の性格を僕は知っていて、からかってやりたくなるのだ。
 でも、それはもう出来ない。
「沙稀(さき)――」
 和那がつらそうに僕の名を呼んだ。唇をぎゅっと引き結び、肩が僅かに震えているのが分かった。何かを耐えるように、息を止める。
 次の瞬間、自分の頬に何か暖かいものが落ちてくるのを感じた。
 和那の眦から透明な雫が流れ、頬を伝い、頤から音もなく零れてくる。
 和那は泣いていた。僕を思って泣いてくれている。
 嬉しかったけれど、でも、同じくらいにどうしようもなく悲しくて。
 彼を抱きしめてでも泣きやませたかったが、それは無理な相談だった。
 僕はもう、和那に声を聞かせることすら出来ない。

 そのことに気づいたのは、昨夜だった。
 前日の夕方から酷い発作が続いていて、自分の先が長くないことを――灯火が消えかけていることを――自分でも直ぐに思った。先天性の心臓の病は僕が生まれた瞬間から心身を苛め続けていて、命が常人よりも短いであろうことは早くから主治医の先生から聞いていて、そのときになって、ああ、いよいよだな、と思った。
 最後の瞬間は、意外と呆気ないものだったと覚えている。
 きっと苦しみながら死んでいくのだろうけれど、出来れば苦痛は少ない方がいい…、そんなことを考えているうちに、ふっと酷い眠気に襲われた。首の血管をぐっと押さえつけられるような、意識が無理矢理遠のいていく感じ。それが、死への誘いだった。
 僕はそれに逆らうこともなく、灯火を消した。
 もしかしたら、発作の渦中で死んでいくよりは幸せだったのかもしれない。先生もそう言っていた。けれど、苦痛の死も、安寧の死も、死という事実に向かう意味では変わりがない。
 人は死んでしまえばそれで終わりなのだ。その先には何もない。完全な虚無。けれど、その『何もない』事が想像出来なくて、生きるものは皆、その正体不明の虚無が理解しがたくて、受け入れがたくて、だから死が恐ろしいのだ。
 僕も、死ぬことが怖くなかったわけじゃない。無理をして諦めようとしていた節もある。
 …けれど。
 その後も、意識は消滅しなかった。
 床に就いたまま、僕は息を引き取った。文字通り、呼吸は停止し、心臓の鼓動も止まっている。今だって、血管が脈を打っていないことは分かる。主治医の先生が、呼吸、脈動、瞳孔を診て、僕が死亡したことを家族に通告した。
 それを聞いて、母は悲しみに嗚咽を漏らし、父も耐え難い苦渋の念を顔に表した。彼らがそれでも諦めきれないように僕の名を呼ぶのを、僕は何処か閑散とした気持ちで聞いていた。
 聞こえていた…、そう、分かったのだ。そういった感覚だけが、未だ僕を現世に留めている。
 僕は死んでしまったはずなのに…。
 実際、僕は自身の身体を全く動かすことが出来なかった。それから数時間が経って、全身の筋肉は完全に硬直してしまっている。まるで意識を持った死人人形。
 当然僕は混乱した。死んでいるのに死んでいないように思える、しかし確かに死んでいることは自覚している。そんな奇妙な感覚に捕われた。恐怖とは種類の違う戸惑い。
 自律的な身体機能が停止した植物状態とも違う。けれど、死を自覚している――。
 身体の器官の機能が働いているとか、そういったことは関係なしに、僕の感覚は働いているように思われた(そもそも、こうして『思っている』こと自体がその証拠だ)。周囲の話し声や物音は聞こえたし、空気が動いて風になり、頬に掠めるものも感じることが出来た。
 …でも、僕は死んでいるのだから、その感覚は本物ではないのだ。
 けれど、偽者とも言いがたい。
 自分で自分を感じることが出来るということは、何よりの自分自身の存在の証明なのだ。
 …では、この『透明な感覚』の正体は何なのだろう。
訃報を聞きつけて、直ぐに和那はやってきた。
 少しの間、二人だけになることを許してもらい、しばらく僕の顔を見つめていた彼は、叱咤するように呟き掛けた後、言葉を失い、そして涙を流した。
 僕はその様子を、何もすることも出来ずにただ見つめるのみだった。
 ――そうなのだ。
 僕は、確かに彼の俯いた表情を見て取ることが出来る。それはつまり、僕の眼が開いて、それが彼に向いているということに他ならない。僕の眼は、ちゃんと見えている。
 でも、和那は僕が眠って――永遠の、だ――いることを確信し、その上で語り掛けているのだ。
 和那には、僕の眼が見えていない。彼には、僕は眠りについたときの顔、つまり眼を閉じた表情に見えているらしいのだ。和那に自分の苦痛の表情を見せたくなかったから、それだけは安心した。
 僕は、自分の身体が動かないことを知っているのに、その一方では瞼が開くことに気づいていた。頭で冷静に考えることが出来るのに、死という事実を受けとめている。
 …これは夢なんじゃないか、一度はそう思った。
 誰もが一度は考える、自らの死。僕の心の片隅にも死への好奇心があって、それが僕に夢という形で見せた、言わば幻想世界なのではないか、と。
 夜が明けるのを横で感じつつ、僕はずっと意識の覚醒が続いていることを再認識した。
 確認は出来ないけれど、頬を抓らなくとも、確かに僕は死んでいる。それは、その現実を知った僕だからこそ言えることなのかもしれないけれど、事実で、真実だ。
 この、呆気ないほどの現状の理解が、生と死の逸脱だった。
 僕は、どうすればいいのだろう…、和那の微かな嗚咽が響く部屋の中で、そう思った。
 僕のために涙を流す和那のために、僕は何もすることが出来ない。
 こうして、和那を見つめることが出来るのに、彼を泣きやませる術を持ち合わせていない。
 ――僕はここにいる、ちゃんときみを見てる。
 そう彼に伝えることが出来たら。僕は心底、悔しくすら思った。
 和那の涙は見たくない。彼の悲しむ顔を見たくないのに。
 泣きたかった。泣いてしまいたかった。でも、僕にはそのどちらも叶わない。
 僕には一筋の涙も許されない。

 ひとしきり黙って泣いた後、和那は部屋を出て行った。去りぎわ、僕の頬に落ちた、彼が零した涙を彼はそっと拭ってくれた。和那の指は不思議とひんやりとした感覚を僕に伝えた。
「…また、来るから」
 彼はそう言い残し、部屋には僕一人きりになった。
 幼馴染の和那は、僕の一番の友人だと誰にでも公言出来る。その親友を失ったら、なんて、僕は考えたくもなかった。
 けれど、先に命を失ったのは僕だった。和那の胸の内は、悲しい、という一言では片付けることなど出来ないに違いない。それだけに、僕は胸が痛い。
 和那が部屋から出て行くと、完全な沈黙が辺りを覆った。木の床を一歩一歩遠のいていくのが、背中に小さく響いた。
 まだ逝ってしまったわけではない、僕はまだここにいる。
 そう和那に伝えることが出来たら、そう思う。
 一人になっても彼はまた泣くのだろうか。
 僕は、彼が去って誰もいなくなった空間に、彼の意識の残骸を見つけ出そうと意識している自分がいることに気づいて、半ば驚いた。
 自分の隣に和那が、そして彼の隣に僕がいることが当然だった日常がに亀裂が入り、平生の余韻が解体されていく。
 死という現実に対してはどんな抵抗も叶わないことはよく分かっているのだけれど、和那が僕に言ったように、僕は少し身勝手なのかもしれない。
 それはきっと、お互いが相手を信頼しきっていて、依存とは違う種類の甘えがあったからだろう。
 時間に関しては緩慢な僕をいつも和那は窘めたけれど、ぼくたちは互いの約束を破ることはなかった。だから、最初で最後の卑怯な約束違反がこんな形で和那を悲しませたことを今更ながら思い返し、この重みを感じるのは、当人である僕よりも和那の方なのだという事実を知る。
「沙稀、くん」
 抑揚を抑えたような声で自分の名前が呼ばれたのは、その時だった。
 動かない僕の視線に、一人の青年が覗き込んでいるのが飛び込んできた。
 突然のことに、僕の思考は中断する。
 誰…?
 出したくとも声を出せない僕は、そう心で問い掛ける。
 僕が気づかないうちに、その青年は部屋に入り込み、僕の枕もとに座していた。そのことに小さな驚きを覚える。少なくとも、誰かが部屋に入ってくる気配を感じなかったから。
 彼は、僕の知らない人だった。黒いシャツとズボンを着た青年。和那には歳の離れた兄がいたのだが、青年は彼と同じくらいの歳に見えた。同時に、何故か僕は彼を知っているような、妙な気分に捕われる。
「俺の声が聞こえるね?」
 何故か彼は、僕にそう問い掛けた。
 僕が今度こそ驚いたのは、その視線が僕の視線と正面から絡んだことだ。彼は、僕の眼を見て話している。本当は開いてないはずの僕の瞳を、正面から見据えて。
 当然のことながら何も言い返せずにいると、
「警戒しなくてもいい。俺はきみと同じだから」
 青年は小さく頷いて軽く微笑んだ。不思議と相手を安著させるような、柔らかい微笑で、僕は心が落ち着いていくのを感じ取る。
 僕と同じ?
「そう…、きみは、自分がもう現世の人間でないことを自覚しているね? 俺もそうだ。だから、きみが話せば、その声が聞こえる」
 現世の人間でない自分…、つまり、死者。
 彼も、そうなのだろうか。
「どうやらきみはまだ気づいていないようだけれど、きみは既にこちら側に来ているんだよ」
 こちら?
 どういうことなのか今一つ判断に窮していると、彼はちょっと困ったように、はにかんだ笑みを見せた。
「現にきみには俺の声が聞こえているようだし、きみはちゃんと俺に話し掛けているだろう?」
 青年はそう言ったが、僕にはやはりその自覚はなかった。
 でも…、この通り、僕は自分の身体を動かすことも出来ない。
「それは、きみがそう思っているだけだ。俺には、きみが話す言葉がちゃんと聞こえている。『人は死んだら身体機能を停止する』と言う前提は確かに正しいけれど、その常識をこちらにまで持ち込む必要はない」 彼は窘めるように言って、手を伸ばし、僕の頬を軽く撫でた。彼の手は、不思議と暖かかった。
「沙稀くん、きみは確かに、既に死んだ人間だ。そして、きみはその事実をちゃんと受け入れなければならない。動けないと思っているのは、きみがただそう思っているからに過ぎない」
 そう言われても、俄かに信じることなど出来なかった。どちらが本当で、どちらがそうでないのか分からなくなりそうだった。
 一度は悟りかけた真実が、呆気なく崩れていく、そんな心象を抱く。
「…仕方がないな」
 そう呟くと、彼は寝ている僕の両肘に手を差し入れた。そのままぐっと両腕に力を込め、彼は僕の身体を起こす。固まっていたはずの僕の身体は、意外にもすんなりと起き上がった。
 その瞬間、僕は得たいの知れない違和感を感じ取った。
 …何か、変だ。
 そう思うと、僕は上半身を捻って、それまで自身が寝ていた枕を見遣った。
「あっ…」
 それを見て、僕は声を上げずにはいられなかった。
 僕の下には、僕が寝ていた。
「これ、僕…?」
 眼を閉じて、生気のない真っ白な顔をして、不自然なほど安らかな顔をした僕自身が。
 それは確かに、つい先程の僕自身であって、しかし僕ではない自分だった。
「分かっただろう」
 青年が言うのに反応して、僕は傍らに座った彼に向き直った。
 そして、僕は再三、驚くことになる。
 身体が動く、という事実。声が出る、という事実。
「きみは、確かに死んだ。そして同時に、こちらにやってきたんだということに」
 青年はそう続けた。先程も言った、『こちら』。
「死後の、世界…?」
 全く異常なく自然に出る声に、半ば不安を隠し切れずに震える声で僕が問うと、
「いや…、それはちょっと違うな」
 青年は首を振った。
「生き霊、というのを聞いたことがあるだろう? 生きながらにして、精神が身体を抜け出し、彷徨うとされる存在だ」
 僕はコクンと頷いた。もう、自然に自身の身体が動く。
「今のきみと俺は、それに似て非なるものだ。命の灯火が消えたのは確かな事実で、きみもそれは認識している。だから、俺たちは自分が死んだことを悟っているのに、けれど現世に残留する存在。生きてはいないけれど、完全には『死という無』への離別は果たしていない存在」
 身の置かれた状況が次第に明らかになっていくにつれ、
「…あの、貴方は一体何なんですか」
 ようやく僕は眼の前の人物について考えるに至り、そう訊いた。すると彼は、
「ああ…、やっぱり覚えていないんだね」
 彼は僅かな落胆の色を浮かべてそう言った。何のことだか分からない。
「生と死の境界線を越える瞬間、記憶の混濁と途切れがあっても仕方がないか。…そうだな、簡単に言えば、今の俺は死神だな」
 あっさりとそう答えた。


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