だけどぼくらはしんじてる。


「あったかいショコラが飲みたくなったなあ」
 コートのポケットにある小銭を手に取り数えながら、ヒロム(拓)は言った。
 顕微鏡の首を掴んで、箱の中にゆっくり押し込んでいたミナト(湊)は、その声に一瞬作業を止めて彼を見た。
 ヒロムの目は、あからさまに『一緒に行かない?』と訴え掛けている。
 『一緒に行こう』ではなく、あくまでミナトに決定権を委ねる表向きだが、ミナトは直ぐにはなんとも言えなかった。
「『猫耳工房』? 最近、よく行くね」
 ミナトたちの生徒宿舎から程近いところに、彼ら御用達――というよりもむしろ、ヒロムのお気に入りで、自然、彼の傍にいつもいるミナトは一緒に行っているのだ――の店がある。
 それが『猫耳工房』という名の一軒の小さな喫茶店で、雑貨屋で、書籍屋でもあった。
 表向きには小ぢんまりとした喫茶店で、時々少年たちはコーヒーや紅茶を飲みに行く。
 今日は寒いから、なんとなく暇だから、美味しいコーヒーが飲みたくなったから、紅茶の香りが恋しくなったから――。
 何かとその場限りの理由を付けては、ヒロムはミナトを誘って、その店に行こうとする。
 だから、その時もミナトは単純に、またかと思った。
 何ということもない、ミナトはただ、その時は冷たい木枯らしの中に出向く気にはなれなかっただけだ。
 冬は好きだが、極度の寒さにはあまり強くない。ミナトは、そういう性質の少年なのである。
 暑さに弱く、寒さに弱い、人間とは結局そういう生き物なのだということは、ミナトだけに限らない考え方だ。
 すると、ヒロムは大袈裟とも取れる嬉しそうな声音で、
「え、ミナト、『猫耳工房』に行きたいの? ぼくはそんなこと言ってないのに。なんだ、ミナト、そんなこと思ってたんだ。じゃあ、ぼくも一緒に行こうかな」
 そんなことを言い出す。
 そう言われては、ミナトも少し言い返したくなる。
「ぼくじゃなくて、ヒロムが行きたいんだろう」
 いつの間にか、ミナトが元から行きたかったのだ、ということになりつつある雰囲気に気圧されて、ミナトが突っ込むと、
「じゃあ、やっぱりミナトは行かないんだ。ぼくは行くことにするけど――」
 やっぱり、というところを強めて切り返された。ヒロムは既にコートを手に取っている。
「行く」
 ……果てに、即答。見事な誘導尋問だった。
 ヒロムは求めていたらしい答えを聞いて、微笑んで指をパチンと鳴らす。
 ミナトはしばしば、自分はヒロム拓に手懐けられた犬か猫のようだと思う。
 しかし、ヒロムが『あったかいものが飲みたくなった』と言っただけで、『猫耳工房』の名前が自然と出てくる辺り、自分の思考――志向、嗜好――はヒロムに近いのかもしれない、などと彼は思い直した。
 暖かいものが飲みたくなっているのは、ミナトも同じだったから。
 箱の蓋をわざとパタンと音を立てて閉じ、ミナトは教室後ろのスチール棚にそれを仕舞いに行く。
 背後から、ヒロムの軽い溜め息混じりの声が聞こえてきた。
「ミナトってさ、なんか……、こう、あっけらかんとした素直さで、ポケットに入れて持ち歩きたくなるような性格、してる」
「なに、……急にそんなこと言って」
 ミナトはわざと憮然とした声色で返したが、ヒロムもそれが故意のものだと気づいているのだろう、
「ミナトのそういうとこ、ぼくは好きだな」
 それこそ、素直過ぎるような、真っ白な感情の声で言った。
 背中で聞きながら、それは、きみのことじゃないかな、とミナトは思った。
 しかも、少なくとも、ミナトの知る他の誰よりも、ヒロムは諦めの悪い少年なのだ。
 彼があんなものの言い方をするときは、大抵がミナトの機嫌を窺うときで、最後にはミナトが折れてしまうのを、二人とも分かっている。


 結局、ヒロムに言わせれば『満場一致』で、お茶を飲みに行こうということになった。
 二人はコートを着込み、ミナトはマフラーを首に巻きつけた。
 隣室の理科準備室に続く扉から、そこにいる教師に声を掛け、理科室を後にする。
 ミナトが様子を窺ったとき、若い理科教師は彼に背を向けて何やら報告書のようなものに記述をしているところだったが、声を掛けられると振り返って軽く微笑んだ。ミナトは彼にとっても御得意様である。
 今は椅子の背もたれに掛けられているが、授業の時には彼は白衣を着て壇上に現れる。病院の医師が纏うそれと同じく、理科教師の白衣は理科室という空間を曖昧な舞台にするに拍車を掛けているのだと、ミナトなどはいつも思う。
 焦げ茶色の戸を再び開けるとき、ミナトは確かに一瞬、躊躇した。
 そしてその惑いは正しかった。僅かな隙間が出来た瞬間、そこから冷気が二人の身体を細く切りつけていく。
 これから、更に冷たい世界の中に出向くのかと思うと、ミナトはほんの少し憂鬱になりそうだった。
 冷えたアスファルトの地面が、靴を浸透して足裏に伝わってくるかのようだ。
「うわッ……」
 思った通り、外に出ると痛いくらいの寒気の中に二人は立たされることとなった。思わず声が漏れてしまう。
 改めて、寒い、と口に出してしまうのは流石に躊躇われた。
 言葉にしてしまうと、余計に寒さを感じてしまいそうだったからだ。言霊とはそれ程の力を持つ。
 ミナトもヒロムも肩を竦め、ぎくしゃくと歩き出した。
 空一面に灰色の雲が見えた。それは夕日の紅が混じって暗い群青に染まり、やがてビロード色の気配を醸し出す。
 雪が降りそうだ、という少年たちの推測は、近いうちに現実のものとなりそうだ。
 風はそれ程強くはなかったが、自然と足元を見つめながら歩く格好になってしまう。
「やっぱり、行くの止める?」
 ヒロムは言ったが、ミナトは首を振った。
 ここで自分が頷いたら、彼は行くのを止めてミナトと一緒に帰るに違いないのだ。
 何故だか、それは嫌だった。
「平気」
 ミナトは白い息を吐き出しながら言った。少し、声が震えていたかもしれない。
「ヒロムが奢ってくれるんだと思えば、これくらい、何でもないよ」
 ミナトが口元を上げて言うと、それを聞いて、ヒロムは半歩だけ、彼に寄り添った。
 気分だけでも、ほんの僅かに暖かくなったような気がした。
 ヒロムはそして、小さく口を開く。
「それは、勿論」

     ■     ■     ■

 通りを一本脇に入っていくと、英国庭園を縮尺して作ったような庭と露台が見えてくる。
 静かな小道の中で、更に静かな一軒の家屋にも見えるその建物は、柱に看板が掛かっているのを見れば、そこが店舗なのだと分かる。
 煉瓦の飛び石の上を歩いて入り口へ向かう二人の周りから、一瞬風が止んだ。次の瞬間、ミナトの頬にヒヤリとする感覚。
「雪、だ……」
 見上げれば、頬に、髪に、唇に、天然の白い羽根が舞い降りてくる。
 冬の天使が、天上で舞い踊り、彼らの羽根が抜け落ちて舞い散る。
 聖杯から零れた水がそれに絡みつき、共に凍って落ちてくる。
 人の作り出せない、天然の結晶。それが、次々に地上に降ってきていた。
 片手の手袋を外し、宙に翳せば、その上に白い贈り物はやってくる。
 舌を少し出して舐め取ると、響くような冷たさが響いた。
 少年たちは、しばらく空に顔を向けたまま、その場に佇んでいた。
 天の白さは更に増えていく。気づけば、寒さも更に増したようだった。
 今夜は積もるかもしれない、そうミナトが思ったとき、
「入ろう」
 ヒロムの急かす声がする。ミナトはヒロムに促されて、扉の前に向かった。
「こんにちは」
 そう声を掛けて先に店に入ったのはヒロムで、室内の空気を一息吸って、ほっと溜め息をついた。
 続けて入ったミナトも、何故か同じ動作をしたくなる。
 店とも部屋とも呼べるその空間は、不可思議な空気を含んでいて、けれど胸に溜めておきたくなる。
 赤茶けた煉瓦色の扉を開けると、それに取り付けられたウィンドベルが透き通った音を奏で、その瞬間から、もう懐旧めいた雰囲気が漂ってくるのが分かる。それは、ミナトがいつも感じている異舞台への誘いで、学校のそれとはまた違う、幸せの迷う空間であった。
 その内部は、喫茶店というよりも、やはり広い書斎、といった装飾を有している。
 一階と二階が吹き抜けになっていて、天井が高く、入り口近くの螺旋階段で分かれている。
 欄干には誰の作品か、額入りの絵が幾つも掛けられている。
 猫の絵が多く、この店の名前が『猫耳工房』である由来は、その辺りに起因しているのかもしれないが、少年たちは深くは知らない。
 一階部分が喫茶室だ。入り口正面のカウンターは椅子が数脚並べば幅がなくなる程の長さしかなく、人によっては店長の数奇さを窺い知ることが出来るだろう。
 それは、その店の中に幾つか置かれたテーブル、そしてその上に整然と、又は殊更に雑然と並べられた蒐集品を見れば一目瞭然となる。
 真綿の上に乗せられた鉱石や化石。滑らかに磨かれたものもある。
 ガラスの小瓶に入った様々な色の砂、小石。月の砂もあるというが、定かではない。
 入籠細工になった銀の器。
 昆虫籠の中の、虹色の羽根を持ったカゲロウの標本。その隣の、黒曜石色のカブトムシ。
 翡翠の石で出来たペーパーナイフ。水晶の文鎮。
 望月の形をした碧い陶磁器皿のレプリカ。――等々。
 少年たちが訪れるときにはいつも店の番をしている、大学の博士課程に在籍しているという物静かな青年が、現在の店の主人で、名を柊(ヒイラギ)という。
 彼は旅をするのが好きで、遠くへ行く度に様々なものを見つけ出し、持ち帰ってくる。
 テーブルのみならず、店の隅には陳列台や大きなガラス戸棚があり、その中にも数えきれない程の蒐集物が詰まっている。
 得体の知れぬものが入っているホルマリン漬け、リスやキツネの剥製、回虫や黴(かび)や菌が入っているのだという『開封厳禁』というラベルの貼られた茶色の壜…、そんな類のものまで棚の何処かには仕舞い込まれているらしいが、ミナトは棚の一番奥を覗いてみようとは思ったことがない――ヒロムがどう思っているのか……、いつかこっそり、主の目を盗んで開かずの扉を開ける日が来るのかもしれない、とは思う――。
 これらは全て、一応売り物なのである。
 誰が買い求めるのか見当もつかないものも稀にあったりして、眺めているだけでも一向に飽きない。
 そんな風変わりな店は、実のところヒロムだけでなく、ミナトも気に入っていた。
 彼らは時々、目に留まった鉱石などを安く譲ってもらい、生徒宿舎の窓際に置いておく。
 晴れた月夜の晩に、月明かりに照らされて幽遠な輝きを部屋の中に反射する様子は、少しだけ少年たちを不思議な世界に迷わせる。

 コートを脱ぎながら、二人はカウンターまで進み、椅子に腰掛けながらショコラを注文した。
 カウンターの向こう側に座り本を読んでいた柊は、それに白い鳥の羽根で出来た栞を挟み、軽く頷くと後ろの食器棚に身を向け、準備を始めた。
 訪問客に対し、いらっしゃい、とも、何かお飲みになりますか、とも訊かないのは、彼のいつものやり方だ。
 彼自身、まるで『猫耳工房』の一部であるかのように客を静かに出迎え、内部に誘う。
 珍しいものを見つけて手に入れてくるのが趣味であるような青年は、珈琲や紅茶などの原料も仕入れてくるのが常だった。ミナトやヒロムがいるときに訪ねてきた大人の客が、少年たちの聞き取れないような外国名の紅茶を所望したとき――まるで柊に挑戦するかのように――も、彼は平然とした顔で戸棚から茶葉の入った包みを取り出し、要望に応えてみせた。
 しかも、品揃えだけでなく、素人目に見ても、柊は茶の淹れ方が巧い。本人の言うには、客の要望に応えているうちに自然と品揃えがよくなり、色々な種類の茶を淹れているうちに、自然と期待に応えられるだけの技量を身につけていたらしい。
 ヒロムなどに言わせれば、柊の茶を飲める自分たちは余程の幸せ者だと思わなければいけないという。
 そこまでなのかはミナトには分からないが、ヒロムが柊に相当の懇意を抱いているのだということは、よく知っている。
「ごゆっくり」
 間もなく、二人の前には湯気の立つ白い陶器のカップが置かれた。ショコラの甘い香りがたちまち二人を包む。
 一口含むと、最初の一瞬だけほろ苦く、次いでチョコレートの甘い風味が舌を掠めて喉へ流れていく。
 粘膜を覆っていくような感覚だった。いつ味わっても、つい何もかも忘れて嬉しくなってしまうようなショコラだった。
 二人が言葉もなく身体を温めていると、柊は小さな皿を差し出した。
 それには白い色をしたバターのようなものが載っていて、何かの木の実が一緒に固められているものだった。
「これは?」
 ヒロムが訊くと、柊は、
「それを少し齧(かじ)ってから、飲んでみてごらん」
 と静かに微笑んで言う。
 二人は一度顔を見合わせたが、言われた通りにする。と、それが何なのが直ぐに分かった。
 白い固体はホワイトチョコレート、その中の木の実はクルミの欠片だった。
 チョコレートの甘さに、クルミのほろ苦さ、そしてショコラの甘さ、苦さ、と感覚が反復し、重複する。
 思わず感嘆の息をついてしまう少年たちを満足そうに眺め、若い主人は椅子に座ると、再び本を開いた。
 無駄な干渉を求めず、また他人にそれをしないのが彼の信条で、彼と馴染みのあるミナトとヒロムに対しても、その態度は変わらない。
 しかし、一度波長が合うと、いつまでも相手の話に付き合うだけの度量と寛容さも備えている人物だった。少年たちは、彼の二面性をよく知る者のうちで、だからこそ当然のように成り立っている『猫耳工房』の、一種の静謐さを知っている。
 ミナトたちはしばらく、暖かなカップを片手に取り留めのない話をした。
 やがて喫茶室の中を歩き回りながら、数多くの装飾物を前に談義が始まる。時折少年たちが、これは何処から手に入れてきたものかなどと柊に質問を向けると、青年は耳の端で彼らの話を聞いていて、律儀に答えを返してくれる。

 そうしているうちにも、外界は闇が全てを覆っていき、夜の気配に満ちていく。
 そんな中の雪の舞いは、死のような沈黙を連れて、ただ深々とやってくる。
 少年たちの周囲では、幾つもの異なる世界が入れ替わり立ち代わり姿を見せては、消えていく。
 『猫耳工房』は、閉店時間がまちまちだ。日が沈むと早々に店を閉めてしまうこともあれば、一晩中、煌々と明かりが灯っていることもある。それは店主である柊の裁量による。彼が夜通し二階の書庫で本を読んでいるようなときには、店も開いたままなのである。
 店の二階には、幾つもの本棚が並んでいる。
 文芸書から科学図鑑、政経文書に各国語事典まで種類を問わず、知識を問えば答えがある……、そんな空間だ。
 大きな書き物机まであり、まさに書斎、見方を変えれば小さな図書室である。
 過去に何度も、ミナトとヒロムは宿舎に帰らず夜通し、柊の横で本を開き、物語の前でいつまでも尽きず語り通した。
 そのうちに彼らの疑問に答える形で柊が院生としての知識を披露し始め、……ふとミナトが気づいたときには、本棚にヒロムと二人、寄り掛かって眠っており、身体には毛布が掛けられていた、などということもある。
 既に夜は明けていて、青年はというと、一階の炊事場で二人のために目覚めのコーヒーを淹れていたのだった。
 ミナトは、今日も朝まで店を開いていて欲しいなと思った。
 窓の外には、段々と降る量を増す雪の舞踏が見える。出来れば、今晩は宿舎には帰らず、このまま雪の降るのをずっと眺めていたいと思った。
「もし帰るのなら、早いうちがいい。今夜の雪は、大分積もりそうだ」
 だから、柊が二人を交互に見遣ってそう告げたとき、ミナトは一瞬落胆しそうになった。
 彼がミナトたちに早く帰るように急かしているのかと思ったからだ。……店主の表情からは、それは読み取れなかった。
 しかし、ショコラを一口飲むうちに思い出した。
 柊は、ミナトたちが今夜、ここにいることを快諾したのかもしれない。今の言葉は、その代わりだったのかもしれない、と。
 そうでなければ、普段口数の少ない柊が『もし』などと曖昧なものの言い方をするはずがない。
「ぼくは……、今夜は、戻りたくない――」
 ミナトは、静謐のように朝までずっと変わらぬと信じていられるこの空間で、雪が世界を塗り替えていく様子を見ていたいと思ったのだ。……他の場所では駄目だと、何故かそのとき、思うのだった。
 そして、柊が否と答えたとしても、精一杯の思いで頼み込む覚悟は出来ていた。
 ミナトが青年の眼を真っ直ぐに見て言うと、横から、

「ぼくも。御迷惑は掛けませんから、居させてくれませんか」
 ミナトが申し出るのを察していたかのように、ヒロムも言う。
 ……しばらく、沈黙の中で、外界の雪が降る深々という音だけが響いて聞こえていた。
 やがて、柊は溜め息をつき、僅かに笑みを見せて、
「きみたちが居て迷惑だなんてことは、思わない。好きにするといいよ」
 二つのカップに、ショコラを注ぎ足すのだった。
 もしかしたら、柊はミナトたちが留まるための申し出をすることを、彼らが訪ねた最初から承知していたのかもしれない。…その真意は、彼の胸の内だけにあるのだろう。


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