だけどぼくらはしんじてる。


 ――知らず知らずのうちに、いつかのようにミナト(湊)は眠ってしまったようだった。
 目を開けると、カウンターテーブルの木の板が最初に映った。
 それに身をうつ伏せて寝ていたらしい。
 のろのろと身を起こすと、コートが背に被さっているのが分かった。
 それを引き上げながら顔を上げると、食器棚を背にして、店主の青年も俯いて眠っているようだった。
 ミナトが耳を澄ませると、店の隅にあるストーブの中で石炭が爆ぜる音が一度聞こえた後は、静かなものだった。
 あれほどミナトの脳裏に響いていた、雪の降る音はしなくなっている。
 柊(ヒイラギ)の頭上にあった時計を見ると、夜はもう明けている。
 三人が最後にしていた話は何だっただろう、ミナトはふと、そんなことを思った。
 段々と思い出す。時と場所によって聞こえる雨雪の音が異なって感じられる、という話をヒロム(拓)がして、それに柊が、自然の現象は音階で表わすことが出来るのだという話をしたのだ。
 やがて青年は奥からグラスを幾つか取り出してきて、水を階段のように異なる量、少しずつ注ぎ入れ、縁をゆっくりと撫で始めた。
 すると、ガラスの笛の奏でるような、澄んだ綺麗な音が流れた。
 それは水のせせらぎを現わす演技のようにも感じられ、胸に心地よく響き……、ミナトは目を閉じてそれに聞き入っているうちに、いつしか寝入ってしまったのだった。
 そこまで回想して、はたと、ヒロムはどうしたのだろうと思った。近くに彼の姿は見当たらない。
 二階にいるのかと思って、
「……ヒロム」
 小さく名前を呼んでみたが、返事はない。
 それどころか、辺りにはミナトと柊以外の気配がしなかった。
 自分のコートを抱えてテーブルの近くで惑うミナトは、そのときになって、ヒロムが座っていた椅子の上には彼のコートや手袋がないのに気づいた。それを見て、なんだ、と思う。彼は、コートを着て外へ行ったのだ。何か用事を思い出したのか、何かを思いついたのか。
 ミナトより一足先に、雪を見に行ったのかもしれない。
 夜遅くまで降り続いていた雪は、世界を白で埋めるように積もっていることだろう。
 自分を起こしてくれなかったことに、ミナトはほんの少し、ヒロムの意地悪さを感じた。
 果たしてミナトがコートを羽織り、『猫耳工房』の扉を開けたとき、彼の眼前には全てが白く変わった世界があった。
 家々の屋根や街路を白く覆った雪は、まるでこの世の覇者のようで、しかし全てを優しく包み込んでいる。
 朝は早く、人影はまだない。
 風もなく、辺りはしん、と静まり返っている。
 雪の絨毯は沈黙を引き連れて訪れたかのようで、往来の喧騒も聞こえない。
 本当に、何もかもが凍ってしまったかのようだった。
 『猫耳工房』の前庭も、草花が全部、雪で埋まってしまった。
 柊に雪掻きを手伝わされるかもしれないな、とミナトが思い、苦笑した次の瞬間、
「……え?」
 彼の顔から、表情が消えた。
 そんなはずはない…、ミナトは俄かには信じられなかった。
 店を出ていったヒロムの足跡が一筋、残っていてもおかしくないのに、何者の侵食もなく、本当に目の前は真っ白だった。
 扉の陰などに彼が隠れていて、ミナトを驚かそうとしているのかとも思ったが、そんなことはなかった。
「ヒロム」
 声に出した瞬間、横からトサッ、という音がして、ミナトはびっくりする。
 それは店の屋根に積もった雪が滑り落ちた音だった。勿論、返事はない。
 その瞬間を転換に、ミナトは自分が冷静でなくなっているのを感じる。
 パタン、と扉が背中で閉まるのを感じたミナトは、ゆっくりと雪の中を歩き出していた。
 一歩進むごとに、靴が真綿のような雪の中に埋まる。それを引き抜くように、また進む。
 ヒロムは、いなくなってしまった?
 ミナトの前から、消えてしまった……?
 そんなはずはない。ミナトは再びそう思う。
 あれほど、いつも、ずっと、一緒だったのに。
 しかし、今に限って、ヒロムは彼の前に姿を見せない。
 雪が現れるのと引き換えに、……まるで、彼の存在が夢か幻だったかのように。
 ミナトは首を振り、庭を横切って、小道に出た。
 靴の裏で、雪は鈍くも軽い感触をもたらす。
 ミナトが踏んできた足跡は、楕円形の窪みとなって、白いキャンバスの上に残されていく。
 足に、力が入らない。
 昨日よりも更に白い、自分の息は、魂が身体から少しずつ吐き出されているように感じた。
 雪が、ミナトを幻惑する。
 自分は、まだ夢を見ているんじゃないだろうか。ミナトはそう思いたかった。
 ふと気がつくと、自分は『猫耳工房』のカウンターにうつ伏せていて、隣にはヒロムが柊と一緒に目覚めのコーヒーを飲んでいる――。
 そんな夢を。
 ……けれど、それは確かに現実だった。
 壁の上から先端を覗かせた木の枝から、幾らかの雪片がミナトの頬に舞った。
 それは、紛れもなく現実に感じる冷たさで、そしてミナトは、雪が幻想を見せているわけではないことを悟った。
 ミナトは、視界がうっすらと滲むのを感じた。
 彼が目に指を当てる間もなく、頬に伝っていく雫――。


 ミナトは、……けれど、歩くのを止めなかった。
 彼はまだ、信じていた。
 『猫耳工房』の前の道を店に沿って曲がると、少し先の十字路に何か白いものが立っているのが見えた。
 店の壁を背に、誰もいない街路にひっそりと佇む、一体の雪ダルマだった。
 ミナトがその前に立つと、何も言わずに彼を見ている。
 その顔は、心なしか泣き顔のようにも見え、しかし微笑んでいるようにも見えた。
 その腕代わりの棒の先にある手袋に、ミナトは見覚えがあった。
 ――ヒロムのしていたものだ。
 そのとき、十字路を右に曲がった、店の裏側の道から、ミナトの耳に、さくっ、という、雪を踏み締める音が微かに、しかし確かに聞こえた。握る手に、自然、力が籠もる。
「……ヒロム?」
 掠れかけた声で、友人の名を呼ぶ。
 ミナトは、目の前の雪ダルマにヒロムの居場所を問い質したい気持ちで一杯だった。気が逸(はや)る。
 走り出したいのを堪えて、彼は先に進んだ。
 ヒロムはいる、きっといる……。
 そう祈りつつ角を曲がると、
 そこには一人の少年がいた。
 彼の周りには、小さな雪ダルマが幾つも立っていた。その中には、やはり小さな雪ウサギを乗せているものもいる。
 縞織物のような柄のコートを羽織った少年は、ダルマの隣に座って、楽しそうな、嬉しそうな顔で、今も真っ白な一匹の雪ウサギを拵(こしら)えている。
 ミナトは、いつかヒロムが彼に言った言葉を思い出す。

『ぼくたちは、猫や兎のように茶色い足跡を付けずに歩くことが出来ないけれど、その代わりに、足跡も付かないような沢山の雪が積もったときに、彼らが作れないようなものを沢山作ることが出来るじゃないか――』

 見間違えるはずもない。
 ……少年は、ヒロムだった。
「ヒロム」
 ミナトがそっと声を掛けると、ヒロムはその表情のまま、ミナトを振り返り、立ち上がった。
「ミナト。おはよう――」
 朝の挨拶を言いかけて、直ぐにミナトの眦(まなじり)に視線を合わせ、
「……どうしたの」
 慌てたように駆け寄ってくる。
「大丈夫……、何でもない、何でもないよ――」
 そう答えながらも、ミナトは何故か頬に熱いものが流れるのを止められなかった。
 きっと、嬉しかったからだ……、彼はそう思った。
 自分の傍らから失いたくない友人が、ちゃんとここにいたから。
 だから、ミナトは嬉しさを堪え切れなかったのだ。
「ヒロムが急にいなくなってしまったから、……心配で、どうしよう、って思って。でも、ちゃんときみがいたから。安心したら、なんか――」
 声を詰まらせながらミナトが言うと、ヒロムは事情を察したらしく、でも、『どうして今日に限って、そんな』などとは言わなかった。僅かに苦い顔をして、
「ああ……、ごめん。ぼくが悪かったんだ。ミナトには一面の銀世界を見せてあげたかったけど、ぐっすり眠っていたから起こすのも悪いような気がして……、それで、ぼくはこっそり店の裏口から出てきたんだ」
 ヒロムが指を指す方向には、目立たない位置に小さな戸があった。
 『猫耳工房』の勝手口だった。
「そんなに心配させるとは思わなかった。本当にごめん」
 ヒロムが神妙な顔をするので、ミナトは首を振り、
「ヒロムが謝ることはないよ……、ぼくが勝手に過ぎた考えをしてしまっただけ」
 昨日の夕方の、あの幻の聖人君子の姿が、ミナトの脳裏に過ぎる。
「過ぎた考え?」
 ヒロムは首を傾げる。
「この雪と引き換えに、ぼくの前からヒロムが消えてしまったんじゃないか、って……。そんなことを考えてしまった。少し、どうかしてたね」
 ようやく、ミナトは少し笑うことが出来た。
「大丈夫だよ……。ぼくは、ミナトに何も言わずに、突然いなくなったりなんて、しないから」
 ヒロムも優しく微笑んで、ミナトの髪を軽く撫でた。

 くしゅんっ、とヒロムがくしゃみをして、ミナトの雪の幻想は一幕を終えた。
「くしゃみをした後ってさ……、なんかこう……、ぼーっとしちゃわない?」
 ヒロムは照れ笑いを浮かべながら言う。二人の間に、いつもの空気が宿った。
「やっぱり、雪明けの朝は寒いよね。……戻ろうか。柊さん、もう起きて、コーヒーの準備をしてるよ、きっと」
 二人は、どちらからともなく、雪の小道を歩き出した。
 勿論、裏口からではなくて、正面から再び二人で『猫耳工房』を訪れるためだ。
「――ミナトにはもう少し秘密にしておこうと思ったけれど……、迷惑を掛けたお詫びに、いいことを教えてあげようか」
 店の扉の前に立ったとき、ヒロムが思い出したように口を開いた。
「なに?」
「昨日の晩、ミナトが先に眠ってしまった後に、柊さんに訊いてみたんだ――、融けない氷は作れませんか、って」
 ――昨日、ミナトが考え続けたことだ。院生の柊は、知っていたのだろうか。
「それで、柊さんは、なんて?」
「作れるかどうかは分からないけど、……簡単に融けない氷は持っているって」
「本当に?」
「うん。北の方の海から採ってきた、氷河の欠片があるんだってさ」
 俄かに、ミナトの目が輝き出す。彼の夢が、急に現実に近づいた。
「それ、見せてもらえるかな」
「きっと」
 二人は頷き合って、雪の中の小さな喫茶室の扉を開けた。
 その隙間から、香ばしい挽きたてのコーヒー豆の香りが漂ってくる。
 彼らの背中を、透き通った白銀の光が照らし出していた。
 氷の結晶が、宙を舞っている。
 それは、雪の上の少年たちのように活発に飛び回り、人々の視界の中に飛び込んでくる。
 やがて全ては、日の光と溶け合って、空気の中に消えていくのだろう。しかし、そこにいつまでも変わらない何かが潜んでいることを少年たちは知っているし、それが変わらないことを、ミナトは信じている。そしてこれからも信じ続けるのだろう。
 隣にいる無二の友人と一緒に。



("Snow mirage's Blue"is Closed. Original Illustration's from "杏")


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