だけどぼくらはしんじてる。


 ミナト(湊)が顕微鏡のレンズを覗くと、その中には、沢山の六角形が組み合わさって出来た結晶が幾つも映し出されていた。
 プレパラートの上には、更に薄いカバーが掛けられている。
 それは、マッチ箱よりも小さな箱の中に何百枚という量で詰められていたもので、爪の先でその表面を摘み上げ、ほんの僅かに圧力を加えるだけで拡散してしまうような、脆くて弱いガラスのカバーだ。ピンセットの先で箱から摘み出されて顕微鏡のテーブルにそっと置かれたものだが、そんな息の詰まるような作業も無駄であったかのように、観察の対象である氷の結晶は、呆気なく融けて消えていこうとしている。
 冷凍庫で凍らされ、結晶化された、それまで液体だった水は、固体化されてダイヤモンドの砂のような輝きを放ちつつあるが、それもあと数秒のうちなのかも知れないと思うと、少しばかり儚い。
 じっと見つめていると、鋭角だった結晶の触角の先が少しずつ緩んでいくのが分かる。
 水が凍る、氷になる。ただそれだけのことでも、それが奇跡の時を経た産物であるかのように感じることがある。
 とても不思議で、少し数奇であるように。
 ムーンスケイプのように無機質な情景なのに、氷の結晶は月の表面のように荒涼としているわけでもなく、何故なのか美しいと思える。それは、地上から月を眺めたときのような、眼に映る幻想なのかもしれないが、それは偽者ではないはずだ。
 万華鏡の中に氷の結晶を入れて見ることが出来たら、どんなにいいだろう。
 ミナトはそう思って、溜め息をついた。
 三枚の長方形の鏡板を三角状に囲んで、それを囲んだ筒。一方の端の小孔から覗きながら筒を回転させると、角度が変わる度に色紙や輝くガラスの欠片が動き回り、極彩色の遊戯を見せる。白くも透明な氷の結晶がどのような動きを見せるのか、それを考えるだけで、少しだけ楽しくなった。
 そのためには、まず融けない氷の作り方を知る必要があることに気づく。氷が水に戻ってしまったら、全てが台無しだ。
 ミナトの知る限り、そのための知識を有する少年はいなかったように思える。
 それでも念のため、彼は後で友人に訊いてみようと思った。少ない可能性でも、賭けてみる価値は十分にある。
 レンズから眼を離し、彼は外気に触れる曇りガラスに視線を向ける。
 ミナトのいる教室はスチームの暖房が効いていて、少し頬が火照るのを感じた。
 それとは反対に、部屋から一歩出て廊下を歩けば、ほんの数秒で教室に掛け戻りたい気分になるだろう。
 実のところ、ミナト自身がそうだった。
 ミナトがいる理科室へは、彼の教室から階段を使って二階層分移動しなければならない上、その途中には外廊下を通る必要があった。
 覚悟と気合を極めて教室から足を踏み出したミナトは、それでもやはり風が身体に当たる数秒間、マフラーに唇まで埋め、息を詰めて早足で歩いた。
 白く霞んでは刹那に消えていく自分の息は、空気が凍る瞬間の素振りでもあり、またはミナトに見せた遊戯な幻でもあった。
 冬が訪れる度に遥か古人は、自分の咽頭から吐き出される白い気体に驚愕の思いはなかったのだろうか、ふとそんなことを思った。
 今日のように灰色雲が空に漂う日でなければ、空気は澄んでいて気持ちがいいが、その分凍ったようにピンと張り詰めていて、外を歩くときには知らず知らずのうちに肩に力が入っていた。素手では、コートのポケットから手を出してはいられない。
 外の寒さと中の暖かさの温度差で、窓ガラスは真っ白になっている。
 ガラスを知らぬ者がいたならば、指で触れると氷で出来たと即座の判別が不可能であろう。
 普段は透明なガラスが真っ白なキャンバスに変わる。
 少年たちの中には、それを文字通りキャンバス代わりにして字や文字を描いたりする者もいるが、ミナトはそれをしようとは思わなかった。どんなに綺麗に絵を描いたようでも、数秒後にはその線から水滴が流れ落ち、絵が涙を流しているように見えてしまうからだ。
 即席の画板に描かれた雪ウサギが、まるっこい身体に涙を流し、更に地面を通り越して雫が滴っていく様は、万物を生成する法則に抗わせるのを見ているようで、少し居たたまれなかった。
 曇りガラスは、窓を隔てた外の世界が白く消えていき、全てスクリーンと化すようで、少し離れたところから眺めるのが、ミナトは好きだった。そこには何も映らなくていい。ただ、白いだけでいい。ミナトはそう思う。
 それは、ミナトが雪を好いているからだろう。
 ミナトは、雪が本当に好きだ。
 木も草も地面も多い尽くすような、多くの雪が降った後の一面の銀世界は、ミナトが一番好きな景色の一つだった。
 雪の降った夜の明けた朝、日に照らされて、銀に似た輝きを放つ白。細やかに光を反射し眼に飛び込んでくる透明な光は、眩しくも清涼な響きを脳髄にもたらす。
 それは丁度、つい先程までミナトが覗き込んでいた、顕微鏡のレンズの目先にある氷の結晶と同じダイヤモンドの輝きにも似た、澄んだ余韻を残す。それが視界の全ての範疇で身体に飛び込んでくるのだ。
 そんな情景を眼にした最初の感覚を、冬になるとミナトは思い出す。
 彼にとっては、冬の雪は少し特別なもので、だから、本当なら自分自身の足でそれを踏み締め歩くのはあまり好きではない。
 薄く積もった地面の雪を、さくさくと霜を踏み締めるような音を立てて歩を進めるにつけ、ふと振り返ったときに見える途切れ途切れの茶色い靴跡が、聖なる空間を自分の足が侵していくのを示しているようで、それ以上進むのが躊躇われてしまうような思いに囚われたこともあった。
 そんなときには、友人のヒロム(拓)が、そっとこんな言葉を掛けて彼を嗜める。
「太陽で少しずつ融けて、地面が散り散りに現れる雪よりも、その前に付けられた一筋の足跡の方がずっと綺麗だと思わない?」
「そうかな」
 ミナトが首を傾げると、ヒロムは一つ頷いて、
「ぼくはそう思う。ぼくたちは、猫や兎や鳥のように茶色い足跡を付けずに歩くことが出来ないけれど、その代わりに、足跡も付かないような沢山の雪が積もったときに、彼らが作れないようなものを沢山作ることが出来るじゃないか」
 そう言って、ミナトに柔らかく微笑んでみせた。
 ヒロムは当たり前のように言ったのかもしれないが、それは、ミナトの小さな悩みに向けられた、やはり小さなヒロムの配慮だったのかもしれないと、後になってミナトは気づいた。
 今現在、ミナトの眼前にある曇りガラスのように、微かに積もった雪も、静謐の刻は短い。
 ミナトはきっと、その時を大切にしたいと思っているのだ。
 出来ることなら、いつまでも一緒に胸に仕舞いたい。願っても叶わない、僅かな時を。
 ミナトの手元の、小さなガラスの上にある、小さな氷の欠片のように。
 だから、その儚さが、ミナトは好きなのかもしれない。

     ■     ■     ■

 冷えた廊下を歩き、扉の前に辿り着き、焦げ茶色をした引き戸に指を掛けると、その瞬間、小さな世界の入り口の触れたのだという感覚が蘇ってくる。
 ミナトに限らず、彼と同じ年頃の少年たちにとっては、ある意味において理科教室とは、異世界に繋がる一つの舞台装置に近いものがある。校舎を歩いていても、自分の教室の前を通るのと、理科室の前を横切るのでは、感じられる空気までもが違うように思えるのだ。
 だがそれは、例えば職員室の前となるとつい静々歩いてしまうのとはまた違う。
 薄緑色をした滑らかな床に、実験台として使われる黒い机が幾つも並ぶ理科室。
 後ろの壁際を埋める灰色の棚の中には、様々な化学実験に用いる器具――温度計の沢山詰まった木箱から、試験管や三角フラスコの入った籠、上皿天秤や顕微鏡の納められた箱、等々。
今だからこそ、変化に富んだ化学実験を興味深げに楽しむことも出来るが、初めて『理科室』という空間に足を踏み入れたときには、まず最初に、まるで街の病院の一角の、見知らぬ部屋に迷い込んだような錯覚と共に、正体の知れぬ不安と、しかし確かな好奇心が胸の中を駆け巡ったものだ。
 その正体は、リノリウムの床と、微かに香る、実験で使われた薬品の匂いが醸し出す雰囲気だろう。
 そしてその感覚を、ミナトはよく体験している。
 勿論、今日の、つい先程も。
 理科室は、不思議な空間だとミナトは思う。
 未知と知識が同時に存在する空間として、ミナトは理科室を捉えている。
 これまでに色々なことを学び、知り、覚えてきた。けれど、分らないことの方がまだまだ沢山ある。
 何かを知っても、ほんの少し角度を変えて眺めるだけで、一つのことが違うことに見えてくる。
 丁度、万華鏡のような不思議さを伴って。……それとも、その逆でもあるのかもしれないが、その幾多の未知を少しずつでも知りたいと彼は思い、今日のように放課後の理科室に足を向けるのだった。
 そして、たった今、ミナトはまた一つの未知を脳裏に過らせた。それが、氷の欠片を入れた万華鏡だ。
 氷は、放っておけば融けるもの。水が蒸発するのと同じように、当たり目のこととして認識していること。
 けれど、融けない氷を作ることが出来たら。
 それは、素敵なことではないだろうか。何かの役に立つとか、誰かのためになるとか、そういったことではなくて、ただ、それが存在するという事実だけで心の何処かが満たされるようなものだって、この世には沢山ある。
 色のないカレイドスコープ。
 子供の玩び物としてだけあるには勿体無いであろう、空想世界でのみ存在する、玩具。
 今、机の上にあるのは、顕微鏡と、薄いガラスが詰まった箱、硝子の器の中に入っている、錐で小さく砕かれた氷の塊。
 ピンセットを持って、氷の欠片をシャーレから取り出し、少しだけ指に力を入れると、パキン、と小さく鋭い音を発し、粒状になって飛び去っていく。氷の飛散と引き換えに、思考が散漫になっていくような思いがした。
 ――ヒロムは、何をしているだろう。ミナトがそう思ったとき、
「なに、見てるの」
 急に肩越しの声が聞こえて、
「うわっ」
 ミナトは思わず背筋を真っ直ぐにし、肩を震わせた。
 よく知った声だった。
 それだけに、『彼』のことを考えた途端に現れたその声に、ミナトは少なからずハッとして、声の主を振り返り見た。
 縞織物に似た柄のコートを羽織り、腰を屈めて湊の顔を見つめるのは、他でもない、
「ヒロム。……びっくりしたぁ」
 ミナトの無二の友人だった。
 悪びれる素振りも見せずに無邪気な笑顔を見せるヒロムは、ミナトを驚かせようと企んで、忍び足で近寄ってきたのだろう。
 部屋の入り口に背を向けていたミナトは、それに全く気づかなかった。
「お帰りッ」
「ただいま……、って、なに、それ」
 予想もしなかったヒロムの言葉に、反射的に答えてしまってから、ミナトは脳裏に疑問符を浮かべる。
「別に。帰れ、って言ってるわけじゃないから御安心を」
 何事もなかったように、けれど楽しそうな顔をして、ヒロムは簡単にはぐらかした。
 きょとんとしたミナトの顔をしげしげと眺め、にっこりと微笑む。
 実は、ミナトに声を掛ける更に数秒前から、ヒロムは湊の後ろに立っていたのだ。
 思案癖、というわけではないが、ヒロムに言わせれば、頬杖を付き、物憂げな顔でぼんやりとしているミナトの姿は、彼の仕種の中で一番、様になっているという。
 つまり……、ヒロムが『お帰り』なんて言い方をしたのは、そういうことだ。
「寒いね、外」
 コートをゆっくりと脱ぎながら、先程の遣り取りを白紙に戻すように、ヒロムは言った。
 彼はいつも、思考と行動の切り替えが早い。
 割と茶飯事なことなので、ミナトも一々追求したりしない。
 二人の遣り取りはいつも、さっぱりとしている。
「うん、もう少ししたら雪が降りそうな、そういう気配がする」
「空気が凍って、その粒が木枯らしの中に混じってるんじゃないか、って思うよ。もう頬が冷たくってさ」
 手袋をしたままの両手で頬を包み込み、ヒロムは零す。そうして、手袋を外し、机の上に放り出した。
 部屋に入ってきたばかりのヒロムの顔は、滑らかな少年のそれながら、外気に冷やされて、肌色よりも少しばかり白いように見えた。
 それもやがて、よく効いた暖房に暖められ、ミナトと同じくなるだろう。肌の薄い少年は、総じて上気したときなどは表情にそれがありありと見て取れるものだが、ヒロムは自身の思考から感情から、そういったものを統制していると言えた。
 それだから、彼の登場で僅かに驚きの表情と仕種を見せたミナトを見るにつけ、そうでなくても、ヒロムがミナトの顔を眺めるときには、いつも楽しそうな顔をする。ミナトはヒロムの『お気に入り』のようなものなのだ。

     ■     ■     ■

「話は戻って。なに見てたの」
 先程の言葉をヒロムは繰り返した。
「これ? これは氷――、じゃない、もう水だ」
 顕微鏡のステージを横から覗いて、ミナトは少しだけ落胆の色の混じった声で答える。
 プレパラートとガラスカバーの間には何もなく、ただ水によって両者が密着しているのが確認出来た。
「氷、見てたんだ」
 ミナトの言葉を直ぐに理解した様子で、それでも念のため、というように、ヒロムはミナトの肩に手を置いて顕微鏡に眼を近づける。
 黒より亜麻色に近い彼の髪が、さらさらとミナトの頬に触れて直ぐに逃げていった。
「飽きないね、きみも」
 そう言いつつも、ヒロムは決して呆れた声は出していない。
 好きなものは好きだから仕様がない、というのは、誰にとっても共通した信念だからだ。彼もそれをよく知っている。
 ただ白く円いだけであろう画面を覗くヒロムを、ミナトは何処かぼんやりと見ていた。
 ふと思い出し、疑問を口にする。
「ねえ……、融けない氷って、作れるのかな」
「融けない、氷? さあ、周りの温度が零度以上なら、どうしても融けてしまうんじゃないかな。……どうしてそんなことを?」
 もう分かってるくせに、と危うく口にしそうになったが、
「ん、ちょっとね」
 机に頬杖を付いて、何となく視線を逸らしミナトが誤魔化そうとすると、
「またミナトの癖が出たね」
 一度振り返ってミナトの目を見遣り、ヒロムはまた軽く笑う。
 ミナトは不貞腐れそうになったが、いつものことなので自身の疑問の答えを見つけようと思案する。
「塩を沢山混ぜて凍らせる、っていうのは? ほら、試験管に果汁を入れて、周りを氷で囲んで、塩を掛けてシャーベットを作ったじゃない。あの要領で」
 ヒロムは起案したが、ミナトは首を振る。
「それは駄目だよ。塩水は、逆にそれ自体が凍りにくいんだ。海水だって、直ぐには凍らない。あれと同じ」
「そっか」
 その後、幾つか考えが提出されたが、確実そうな方法は残念ながら浮かばなかった。結局、今日のところは宿題となる。
 それほど失望したわけでもないが、ミナトの口から小さな溜め息が漏れた。
 だが、もしかしたらそれでいいのかもしれない。
 氷には元々神秘的な風合いがある。
 それを人の手で無理矢理に閉じ込めてしまうのは、水と氷の摂理に反するのではないかと、ミナトは思ったのだ。
 氷は、やがて融けるものだからこそ、それが分かっているからこそ、見る者に僅かな時の、更なる美しさを見せるのかもしれない。
 そんな考えに至るミナトの横で、ヒロムは手近の椅子を引き寄せて座り、しばらく顕微鏡のステージを上下させたり、プレパラートを動かしたり、反射鏡を触ったりしていたが、
「あっ」
 と、不意に声を漏らす。
「え?」
 何か見えたのだろうかとミナトは思い、同時にそれを打ち消す考えが浮かぶ。
 プレパラートの上には今や水しかない。だから、ヒロムは何を見ていないのと同じはずなのに。
 ……なのに――、
 ミナトはヒロムと代わりたい思いに包まれる。気になってしまう。
「もしかして、何か見えたの」
 ミナトの声に、ちらりと目を向け、見てみる? と意味深な微笑を口元に浮かべてそれだけ言うと、ヒロムは身を引いた。
 疑念と、けれど期待を入り交えた思いで、ミナトは怖々とレンズを覗き込んだ。
 そしてやはりそこには、ミナトの予想通り、反射鏡によって仄白く照らされた画面があるだけだった。
 ……少なくとも、ミナトにはそう見えた。
「何が見えた?」
 ミナトの頭に、ぽん、と手を置き、ヒロムは訊く。
 何となく意地悪く発せられたように感じられたヒロムの声で、やはり彼の演技だった、自分はからかわれたのだとミナトは確信した。
「……ヒロムの意地悪そうな笑顔が見える」
 何も見えない、と素直に言うのは何か癪で、ミナトは僅かながらの強がりを言った。
 もっとも、それはヒロムの悪戯に引っ掛かったことの何よりの証明でもあったのだが。
 するとヒロムはミナトの髪をくしゃりと撫でて、
「そう? ぼくにはちゃんと、見えたものがあったけど」
 またそんなことを口にする。
「何がさ」
 まだからかうつもりなのかとミナトは思ったが、詰まらないことを言うようならば髪を撫ぜ返してやろうと密かに身構えつつ、相槌を打った。
「白銀の聖者」
「聖者?」
 ミナトの髪から手を放し、外壁の窓ガラスに目を遣るヒロムと、思い掛けない受け答えにどう反応していいものか分からず、跳ねた髪を押さえて鸚鵡返しに呟くミナト。
 湊の脳裏に、白い衣を纏った聖人君子の――ミナトは実際に聖人君子を見たことがないので、文献に載っていた絵のそれをだが――姿が過った。
「そう。もう一度見てごらんよ、きっとミナトの前にも現れるはずだから」
 そう言うと、ヒロムは曇りガラスに足先を向けた。ミナトは口を尖らせ、しかし半信半疑ながら、再三レンズに眼を近づけた。
 先程と同じ映像が見えた。つまり、何も見えない。
 やはりヒロムにからかわれたのだと思い、それに何度も騙される自分に、ミナトは苦笑する。
「……やっぱり何も見え――」
 見えない、と言おうとした瞬間に、狭き視界を何かが横切ったような気がした。
 えっ、と思わず声が出てしまう。
 驚いてレンズから目を離してしまったために、ほんの一瞬しか捉えることは出来なかったが、ミナトの眼に何かが映り込んだのだ。
 幻かとも思った。
 それは、本当に小さな光の欠片のようなもので、人形劇の指人形のように、ぎくしゃくと踊るような仕種を見せながら画面を横切っていった。……ミナトには、そう見えた。
「嘘……っ」
 ヒロムの言葉を信じたくなかったわけではないが、俄かには信じられない。
 彼の言う白銀の聖者とは、その光の影のことなのだろうか。
 そう考えて思い返すと、砂漠で見る蜃気楼のように、ミナトの眼の前に光の欠片が蘇ってくるのだった。
 顔を上げると、ヒロムが窓硝子の前に立って、こちらを見ていた。
「ヒロム――」
 目が合うと、ヒロムは満足そうな微笑みを返して、ミナトの傍らに戻ってきた。
「いた。本当にいたよ」
 鼓動が速まるのを感じつつミナトが言うと、
「だから言ったでしょう」
 諭すような口振りで答え、またくしゃくしゃとミナトの髪を掻き混ぜた。
 聖人に対し、いた、というのもまた妙だが、ミナトは不思議なものを見た驚きで、頭が寝癖のようになってしまうのにも構わず、半ば呆然としてヒロムに向かって何度も頷いた。
 乱れた髪は、ヒロムが指を櫛代わりにしてまた直した。
 理科室で、ミナトはまた一つ新しい不思議に出会ったことになる。
 何もないはずのプレパラートの上に、光の幻影。
 一瞬、目の前に現れては消えていった。
 万華鏡の中にある無限の情景の一部のように、不可解で、その正体を知ろうと思ってはいけないと思わされるような、刹那の邂逅。
「ミナト」
 しばらくして、ヒロムは口を開いた。
「世界に不思議なことなんて何もないようだけど、実はその世界は『不思議』で出来ているものなんだよ」
 また急に妙なことを言い出すヒロムを、ミナトは言葉も返せず見つめるだけだった。
 ヒロムの視線の先には、先程彼が立っていた曇りガラスがあり、白いキャンバスには、何か小さい人形のような絵が描かれていた。
 そして、絵を描くための線からは、曇り空の僅かな隙間から漏れた西日の採光が、微かに射し込んできているのだった。
 それは、ミナトの見た白銀の聖者に似ているようにも、ミナトには思えた。


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