オフコース・マスター



 カフェのエントランスを入ると、既に御坂が仕事着で掃除を始めていた。
「おはよう」
 声を掛けて、壁の時計を見ると、まだ出勤時間には少しだけ、早い。
「おはようございます、オーナー」
「早いねえ、きみは、ホントに」
 どうやら、まだ彼しか出勤してきてはいないようだ。
 まさか掃除好きな奴だったか、と冗談でも思ってしまった。
 掃除好きと綺麗好きは、若干、性質が違う。彼の場合は、後者だ。
「だって仕事ですもん、俺の」
 掃除当番、という言葉が意外に似つかわしい。
 タイムカードに目を遣りながら、訊いてみた。
「ワーカーホリックだったのか、きみは」
「なんですか、それ。ワーカーホリック?」
 モップを動かす手を止めて、彼は私を見遣った。
「仕事中毒のこと。仕事に打ち込むあまりに、家庭や自身の健康などを犠牲とするような状態」
「それって、当たり前のことじゃあないんですか? 誰だって、生活をしていくため、金を稼ぐために仕事してるんだし。多少の犠牲は必要だと思うけどなあ。そのための対価なわけでしょう、金って」
 それは、そうだが。しかし、ここでいうワーカーホリックというのは、仕事以外の物事が見えなくなってしまうくらいに、仕事そのものに集中してしまうようなことを指すのだ。御坂の言い分は、単なる仕事真面目に過ぎない。
「現実主義……、というか、現物主義なんだねえ、御坂は」
「生言わないでくださいよ」
 愚痴を零す口調でいながら、御坂の布巾を動かす腕は止まらない。
「滅私奉公って奴なのかね、御坂の仕事に対する考え方は」
「うーん……、どうなんでしょうね。この仕事も好きだし、楽しいと思いますよ。一凪も幸村も良い奴だし」
 彼は同僚のふたりの名前を口にした。御坂と同じ、料理人兼ギャルソンである。
「おや、珍しい。御坂の口から、そんなことを聞けるとは。僥倖、僥倖」
 普段、必要以上に冷静な人間だと思っていたので、そんな思い遣りのある言葉が聞けるとは。
 基本的にスタッフは若い男性ばかりだが、その選択はあながち、間違っていなかったということか。
「ひとりで納得しないでくださいよ」
 憮然とする御坂を横目に、私は事務所に向かうことにした。店を出て、隣である。
「床、拭いてくれたね?」
「拭きましたよ、テーブル布巾と床モップ完了」
「じゃあ、一凪とかが来たら、エントランスの掃き出しもお願いね」
「了解です……、オーナー」
「うん?」
「オーナーは、違うんですか? 何のために、この店をやってるんですか?」
 まだ、御坂の中では先程の会話は終わっていなかったらしい。 「趣味だと思う?」
 私は端的に答え、彼は首を振った。
「い……、いいえ……、そこまでは、流石に、幾らなんでも」
「でしょう? 世の中の殆どの人は、それくらい曖昧な理由で働いてるんだと思うけれどな、私は」
 今日もよろしく、と声を掛けて、私は店を出た。

     ■     ■     ■

 誰かが身体を揺り動かすので、目が覚めた。
 目を開くと、そこには何故か男の姿があった。
「おはようございます」
 一瞬、ぎょっとしたのだが、聞き覚えのあるその落ち着いたトーンで、全てを思い出す。
 幸村だ。私の経営するカフェの、パティシエ兼ギャルソンである。
 昨夜は、店の裏にある私の家で泊まっていったのだった。
 細身の青年は、殆ど表面に浮かんでいない顔の色で、私の機嫌を伺っていた。
「うん……、ああ……、おはよう」
 元々、それほど朝には強くない体質だが、重ねて冬の朝ということもあって、頭がなかなか働かない。
 コーヒーが欲しいな、と思いながら、起き出すことにする。
「もう、随分明るいですが、大丈夫ですか」
 毎日、起きる時間にアラームを鳴らせている携帯電話は、今日はまだ鳴ってはいないようだ。それにしても、体感的に、随分と寝てしまったような気がするが……、さて。
「いや……、どうかな。キャスタは」
「起きています。起こされました」
「何処にいる?」
「ここに」
 そう言う彼は、成る程、小さな毛玉のようなものを抱えている。猫だ。
「……ああそう」
 私の飼い猫である。幸村は昨夜が初対面のはずだったのだが、一晩中、ふたりで毛布に包まって一緒だったわけか。
 昨夜と変わらない服装の彼は、ソファに敷いた毛布で寝たはずだが、何処も乱れた様子がない。
 寝相は良いようだ……、最も、そうでない彼の様子を想像出来ないのだが。
 直立不動の姿勢をそのまま横にした形を思い起こして、私は少し笑った。
「私ときみとは、どうやら違う種類の人間なようだね」
 私がさも苦言を呈するように言うと、幸村は少し困ったような顔をして首を傾げてみせた。
「先程、管理の方に電話を。手配してくださるそうです」
 突然、話が飛んだ。
「管理?」
「鍵の件です」
 そう言われて思い出す。幸村が私の家に来たそもそもの理由が、それだった。鍵をなくして帰れない、ということで。連絡がついたのならば心配はないだろう。
「ああ、大家さんね」
「はい」
 それはまた、随分早くに電話したものだな、と思っていると、
「ところで、大丈夫なのですか」
「何がだい」
「もう、時間では」
「何の……、うわッ」
 告げられて、ようやく、壁の時計を見て、私は小さく跳ねた。とうに出勤していなければいけない時間だ。
 つまり、遅刻だ。
「どうして早くに起こしてくれなかったんだい、幸村くんッ」
「いえ…、僕は」
「低血圧だから寝坊した?」
「いいえ、今日は、お休みの日でしたので」
 どおりで落ち着いているはずだ。あわあわと服を取り出しながら部下のスケジュール管理に頓着しない自分を呪う。
「そうだったっけ?」
「はい」
 大真面目にイエスと答える幸村を、しかし叱ることも出来ずに私は朝の準備をすることにする。
 別段、朝一番に店のマスターである私が切り盛りしないと客が回らないというわけでもないのだが、なにせ、自宅が店の裏にあるという事実が後ろめたくなってしまう。
「ゆ、幸村くん、お願いしていいかな」
「なんですか」
 洗面所とリビングを往復しながら、私は彼に請うた。
「コーヒー、淹れてもらってもいいかな?」
「はい」
 短く返事をして、幸村はキャスタを抱えたままキッチンへ向かう。
「インスタントのビンがある。カップの横」
「はい」
「きみも飲みたかったら淹れて」
「はい」
 段々と声が遠くなるような気がする。
 何なのだろう、本当に感情の起伏がないせいで、行動が酷くゆったりして見える。
 その間に、御坂に電話することにしよう。きっと、今日も彼は早くに出てきているはずだ。そう思って携帯電話の画面を見ようとすると、電源が入らない。どうやら、夜のうちに電池が切れたようだ。アラームなど鳴らないはずだ。慌てて充電器に繋ぐと、着信が3件入っている。これはどうもよろしくない、そんな予感がして、幸村に訊いてみる。
「幸村くん、きみのケータイに着信はあった?」
「いいえ」
 すげない返事である。
 しかし今日に限って、これはないだろう……、そう思った刹那、玄関からチャイムの音が鳴った。
 これは御坂が迎えに来たかな、そう思ってドアを開けると、
「あらマスター、おはようございます。起きたばっかり、って感じね」
「姉さ……、オーナー。……おはようございます。起きたばっかりです」
 そこには私の店のオーナーであるところの姉が、にっこりと微笑んで。
 すらりとしたパンツスーツで仁王立ちしているのだった。


目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送