シュア・マスター



 そう新しくもない喫茶店の店舗隣に、私は事務所兼住居を構えている。何のことはない、そうした作りのテナントビルは少なくはない。残務処理をした後、店の鍵を閉めるために表から改めて暗い店内に入った私は、明かりがひとつ点いたままになっているのに気づき、次いで、カウンター席にコート姿で座っている人影を見つけた。
 レシピを綴じ込んだものらしきファイルに書き込みながら、如何にもぼんやりしている青年は、そのほっそりとしたシルエットを見ただけでそれが誰なのか分かってしまったから不思議だった。
 幸村。今日の勤務時間は少し前に終わっているはずだ。一凪も御坂も、通常の時間に上がっている。静かな店内に私の靴音が響いたらしく、幸村はゆっくりと振り返って会釈する。
「どうしたんだい、帰らないの?」
 私が問うと、幸村は無言で頷いた。返事にすら言葉を使わないことが多い幸村のこと、私はその時点では特に不審に思うところもない。新しいメニュの研究でもしているのか、と軽い気持ちで話し掛けただけだったのだ。
 だから、次に幸村が発した言葉には、はっきり言って不意を突かれた。
「家に帰れません」
「かえ……、なんだって?」
 年甲斐もなくきょとんとしてしまった私は、事を問い質してみる。
「家に入れないから」
「いや、そうじゃなくて」
 断片的なものの言い方をする幸村の口調に仕事疲れの表情を意識して和らげて、私は問う。
「また、どうして帰れなくなったんだい」
「鍵が」
「かぎ?」
「鍵をなくして」
「ああ……」
 単語以上、文節未満、で喋ることの多い幸村との会話は、ある程度の根気を必要とする。何かやんごとなき理由によっての『居残り』なのかと考えを巡らせていた私は、そういうことか、と少しだけ安堵した。
「鍵か……、何処で?」
「分かりません」
 まあそうだろうと思いながら、
「終業の掃除をしたときには一凪も御坂も何も言ってこなかったな」
「はい」
 幸村もそのときには一緒だったはずだ。
「じゃあ、出先かな」
「そうかもしれません」
「今日、出て行ったところに心当たりは?」
 多分、打てる手は売ったのだろうと思いながらも、それでもと訊いてみる。
「見てきました」
「一通り?」
「はい」
「でも、見つからない」
「はい」
「大家さんには連絡はつかないの?」
 私が訊くと、幸村はほんの少しだけ眉根を寄せて、首を振った。
「時間外です」
 時間外、なんて言葉が幸村の口から出たことに小さく驚く。夜九時前であれば店子の呼び出しに応じない大家はいないだろうとは思うのだが、それぞれの事情もあるだろう。
 これはまた本当に困ったことだな、と思う一方で、最近なんだか、一度会話を始めてみると、この寡黙な人間とも言葉のキャッチボールがスムーズに続くようになってきたな、そう頭の隅で考えている。
「マスター」
 だから、またしても私は不意打ちを食らう。
「泊まっても、いいですか」
「ここに? 今夜泊まるってことかい」
「はい」
 うーん、と私は唸る。従業員とはいえ……、まあ、残業という形で夜中まで残る、というケースもあり得るとはいえ、飲食業店で寝泊りしてしまってもいいものか、咄嗟に私は迷う。流石に酒は用意していない軽喫茶だから、飲み食いしながら夜明かしをするような客を相手にしたこともなかった。ソファや毛布を用意出来ないでもないが、この場合は経営者としてどうするべきか。
 鍵屋に来てもらえ、と一言で告げるのは簡単だけれど。
「とも――」
 言い掛けて、やめた。友達の家にでも転がり込む手は普通に考えることだが、そう言って切ってしまうのは可哀想だろう。まるで私が厄介払いをするみたいで、なんだか面白くない、という考えも、あることにはあった。勤務外の私人である幸村の行動を、少しばかり見てやりたい、という好奇心もあったのかもしれない。
 それに何より、私の家はこの店の直ぐ隣だ。そうなれば、私は、あらかじめ決められていたことのように、幸村に言ってやる。
「しかたないな……、幸村くん」
「はい」
「明日、大家さんに言えば、マスターキーから合鍵を作ってくれるだろう」
「はい」
「だから今夜は、うちに、おいで」
 意外にも幸村は逡巡せず、首を縦に一度、振った。

     ■     ■     ■


 暖房の殆ど冷めた店から幸村を連れて外に出て、建物を回り込んで裏口から外廊下に入る。裏側から見たビルの外観は殆どマンションで、一般の入居者も数多い。そのうちのひとつの扉に私たちはそそくさと向かった。
「ただいま」
 声を掛けて扉を閉める。
 先に玄関に通した幸村が半分振り返って、表情を変えずとも怪訝そうな空気を発したのが分かった。
「寂しい独り者の癖だって?」
「いえ、そうでは」
 私は少し笑って、廊下の奥に視線を飛ばした。
「それが案外、そうでもない」
 子猫が一匹、廊下を駆けてくる。シルバータビーの、まだ本当に小さい猫だ。駆けてくる、といっても、その身体の小ささでは、たたた、というよりも、せいぜいが、とっとことっとこ、といった感じで、
「やあ、ただいま」
 その場にしゃがんで、足元に擦り寄ってくる猫の頭を撫でながら私は改めて声を掛けて、
「というわけでね」
 立ったままの幸村を仰ぎ見る。
 沈黙の空気が他の何かに変わるのを待っているかのように、よくもまあ戒律であるかのように自分から口を開かない幸村は、しかし今日はまた彼らしくもなく私に口を利いた。
「飼っていらっしゃるんですか」
 話題の糸口としては、その日の天気に触れるくらいに、高い点数をあげるには遠く及ばないものだったが、まあ、私は素直に頷いてやる。
「もう半年くらいになるかな」
「触っても」
 言い掛けて、ちょっと違うな、とでも言いたげに幸村は口を開き直す。
「撫でてもいいですか」
「勿論」
 幸村は私の横に屈んで、そっと指先を背中に添わせ、殆ど爪先だけで毛を撫でていく。
「人を怖がったりしないから、大丈夫だよ」
 そう口添えしてやると、
「はい」
 今度は少しだけ大胆に、それでも見るからに恐る恐る、柔らかい指遣いで背中と頭を撫でていた。
 くすぐったそうに、ニァ、と子猫は声を上げる。
「可愛いだろう」
「可愛いですね」
「率直な感想、ありがとう」
「いえ」
 割と素っ気無い遣り取りだが、それでまあ、この場は十分だ。
 しばらく、黙ったまま幸村の指先だけがもそもそと動いていた。子猫はされるがまま。私の笑みは少し深くなる。
「ペットショップの展示会みたいなものがあってね、私の友人が出展する機会があって、ちょっと様子を見に行ったことがあるんだ。何故だか知らないけれど、私は犬猫に嫌われるタイプらしくてね、目が合う犬やら猫やら、ワンキャン吼えるわ目の前から逃げるわで、もう落胆もいいところだった」
「お察しします」
「そこで会ったのがこの子の親」
 幸村の口が少し開いていたのは、普通の人なら『へえ』と相槌を打つ部分だったからだろう。私もそのときの幸村の表情を伺ってみたかったのだが、私の視線を感じたためかどうか、俯いてしまってその顔色を伺うことは出来なかった。
「名前は」
「ん?」
「名前は、何というのですか」
「Caster」
 件の友人が名付け親で、彼の吸っている煙草の名前がそれだった。まあ、WakabaとかFujiなんて名前にされなくて良かったと思っている。
「キャスタ」
 復唱して、幸村は、
「幸村、です。はじめまして。マスターにはいつもお世話になっています」
 ほんの少し、しかしいつもの幸村と比較すれば明らかに笑んで、しかも丁寧に猫に挨拶する姿が非常に珍しいもので、私はもうそれだけで今夜の元は取れたと満足しそうになった。
「さ、ふたりとも、御飯にしよう」
 私は子猫を抱え上げた。今夜はいつもより気合を入れて作らねばならない夕食をどうするか考えながら。

 (続く)


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