気紛れな空



 ――雨が、降り続いている。
 梅雨が明けたばかりだというのに、台風が、日本列島を縦断しているらしい。
 私たちが出掛けたのは、たまたま、私が平日に休みが取れたのがその日だった、というだけのことで、そもそも、普段、平日に私が仕事を休めることなんて全くといっていいほどないものだから、それを聞いたときの鑑(カガミ)の喜びようといったらなかった。
「休み? じゃあ何処行こう。何処行こう?」
 大体、突然に電話を掛けてきて、突然に『近く、休み取れない?』と訊く方がおかしい。タイミング良く、休みが取れていた、なんて答える私もおかしいのだが。
「何処って……、何処かへ行くのか、私も」
「当たり前さ、きみも行くんだよ」
「お前一人だけじゃ駄目なのか」
「それじゃあ意味がないんだよ。きみと一緒に行かないと意味がない」
「そうなのか」
「そうなんだよ」
「そうか」
「そうだよ」
 というわけで、彼と一緒に行くことにした。そもそも、私が望んで申請した休暇ではなかったのだし、元より、突然に休みが取れたからといって、別段、するべきこともないし、したいこともなかったので、まあ、どちらでも良かった。鑑と行動を共にすることで、彼が少しでも救われるのであれば、私の行動の制約なんてどうでもいい。
 そう……、ある種、鑑と共にいることは、私にとって制約と呼べるものだったのかもしれないと、思うことがある。友人でも、恋人でもない、無論、師弟や家族でもない、ただの知り合いの間柄が幾年も続いている奇妙な関係なのだが、お互いに深く触れず、深く求めず、それぞれのスタンスを貫いたまま、出会ってから現在に至っている。
 そんな人間関係を持つことは、案外、現代人らしいと思う。
 普通ではないが。
 ――そう、雨のことだ。
 台風が急接近していることを知ったのは、約束通りに鑑が私の元を訪ねてきて、じゃあ行こう、さあ行こう、と私のクルマの鍵を部屋に脱ぎ捨ててあった私の背広から取り出して、私の手に押し付けてきて、正直殆ど寝起きだったところを訪ねられてきて不機嫌だった私が、渋々、それでも年季が入ったクルマにやはりご機嫌取りをするように滑らかな発進をさせてから、なおのこと2時間ほど経ってからのことだった。
 特に内容のない会話をしながら、可笑しなことにその頃になってようやく、
「それで、今日は何処へ行くんだ?」
 そう私が思い出したように……、実際、そういえば聞いていなかったなと思い出して、鑑に問い質した。
「何処へ?」
 きょとん、という言葉を絵に表すと、きっとこんな風な例なのだろうという顔を鑑はする。
「それほど天気も良くないし、山とか海とかはあまり楽しくないかもしれない」
「そんなことはないさ。きみと一緒なら何処へ行っても楽しいさ」
「いや……、そんなことはないだろう」
「冗談だよ。きみとなら、何処へも行かなくても楽しい」
「いや、そんなこともないだろうよ」
「そうかな」
「そうだ」
「そうか」
 空っぽな会話ばかりしているのが私たちのいつもの遣り方だ。鑑の語り口が意図的なものなのかどうかは兎も角、少なくとも、私は、そうしている。意識して、意味のない、内容のない喋り方を、いつも、鑑とはしている。それをテキストに出力した際にはきっと、当たり障りのない会話のテンプレートとして有効活用されても文句は言えない。
 それでもやはり、何処へ行くでもなく、国道を西方へ走り続けていると、電光掲示板に「大雨注意」という表示が点滅していて、この先で降るのかと流石に身構えたのだった。
「雨なのか、今日」
「降っていないよ」
「今はな」
 そこでようやく、私はラジオのスイッチを入れ、天気予報で最悪の見通しを聞いたのだった。面倒なことにならなければいいが、とステアリングを握る手に余計な力が入る。
「まあ、いいじゃない。ドライブの本質はクルマを走らせることだ」
 気楽な口調で鑑は言う。
「乗ってるだけの奴はそう言うけれどな、走らせているのは私だ」
「だから、それでいいんじゃあないか」
「お前の言う『折角の休み』だぞ」
「雨の中のドライブも悪くはないと思うけれどね」
「そうかな」
「それとも、高速使って雨から逃げる? 東へ」
「人間の足じゃ、直ぐに追いつかれる」
「クルマは飛べないし泳げないものね」
「クルマが悪いみたいな言い方だな」
 もう乗り始めて13年が経つ愛車が、そのタイミングで軽くノッキングした。
「ああ、ごめんごめん」
 それこそ、何処へ、というものでもなく、鑑は下方に手刀を向けた。
 しばらく車内は沈黙していたが、やがて、
「そうだ、じゃあ、クルマと一緒に僕らも濡れるつもりで行こう」
 鑑はわけの分からないことを口にした。
「何だ」
 私が説明を請うために相槌を打つと、
「いやさ、雨と一緒に、何処まででも行くんだよ」
 鑑は余計にわけの分からないことを言った。
「別に雨の中を普通に走ればいいんだろう? 私だって別に不満が言いたいわけじゃない」
「そうは思えないけれどね」
「それはお前こそだろうが。一体、私と何がしたいんだ」
 多少の苛立ちを交えて私が訊くと、彼は、
「何処かへ」
 目だけは真面目な視線を持って、私に短く答えた。
 ――雨が、降り出した。
 台風の中心まで、およそ600キロメートル。しかし既に、遠く離れた私たちの走る道路にも、その影響が出始めた。唐突に降り始めた雨が、土砂降り、豪雨に変わるまでは、ほんの猶予も感じさせないものだった。そうなるともう、一言で雨、と表現するのがおこがましい。
 湿っぽさがクルマの中にも伝わってくるようで、私はエアコンを強めに掛けた。そうすると涼しいというよりも肌寒さが先に出てしまって、古いクルマは本当に加減を知らないと思う。
 いざ、降り出してしまえば、助手席に乗っているだけの鑑が楽しいばかりでないだろうことは容易に察しがついた。空白の会話にも沈黙の割合が増し、たまに横目で伺うと、鑑の表情が何処か眠りに就く直前の子供のような目付きをしていることがあって、なんだか私は自分がいいように扱われた慣れの果てのように思えてきた。しかし私は大人らしく、引き返すためのドライブの中間地点を定めなければならない。
「鑑」
 彼の名を呼んでみた。返事はない。寝入ったか。
 恐らくは、幾ら西へ向かおうとも雨が降り続くことには変わりはない。そうすれば最早、私にするべきことはひとつしかない。
「鑑」
 続けて名前を、呼んだ。返事はない。
 年甲斐もなく、はしゃぎ続けた男の成れの果て……、そんな表現が、頭に浮かんだ。大の男が二人、折角の休日に、雨が降る地に向かってクルマを走らせるだけのレクリエーション。車内で交わされるのは、色の着いた話ではなく、モノトーンに限りなく近い、上っ面の感情表現。一体、私たちは何をしているのか。何をしようとしているのか。何をしようとしていたのか。
「か……」
「帰ろう」
 3度目、呼び掛けようとした私の声を制するように、鑑はそう告げた。
「ここで、帰ろう」
「鑑」
 それは、まるで、主人に暇を告げる者のような果敢無さを持って私の耳に響いた。
「行き先なんて、なかった」
 彼は、まるで、私が横にいるのを忘れて、ただひとり、世界に取り残された者のように呟く。
「戻ろう」
 そう言えば、今直ぐにでも、数時間前の世界に戻れるのだ、と言わんばかりに。
 そんな夢は、少年でなくとも、叶わないのは知っているくせに。
「悪かった、つき合わせて」
 そんな口の利き方をするときの彼は、もう、少年の心を忘れている。
 私は黙って、それに従うしかない。
 雨の中、クルマをターンさせて、私たちは帰路に就いた。その折り返し地点が何処だったのか、後になって私は思い出そうとしたのだが、幾度試みてもそれは出来なかった。もしかしたら、私たちは何処にも向かっていなかったのかもしれない、なんて文学的な表現は似合わないくせに。
 およそ、台風と同じ速度で、私たちは東に向かっていたらしい。雨脚は早まることも、遅くなることもなかった。自分の部屋に送っていこうか、と私は鑑に問うたが、彼は静かに首を振った。それならそれで、私も構わない。我が家に向かって、静かにクルマを走らせた。
 マンションの地下駐車場にクルマを停めて、私は鑑にそのままクルマで待つように言い、エントランスの自販機に足先を向ける。そこで熱いコーヒーと冷たいコーヒーを買った。天候が拍車を掛け、夕方の空は根暗なほどに重苦しい。結局、帰り道では口を開かなかった鑑を慮ったわけではないが、彼らしくない彼を、彼がこれほどあからさまに私に見せることは稀だったから、正直、私も途惑っていた。
「鑑」
 助手席のドアを開けて、私は彼の名を呼ぶ。私はもしかして、もう彼の名を呼び続けることしか出来ないのではないか、そんな妄想が脳裏に過ぎり掛けたが、それを払拭して声を出す。
 黒いジャケットと同じ色の髪が額から被さり、彼の表情を読めなくしていた。私は構わず、両手に持った缶を掲げてみせる。熱いのと冷たいの、どっちがいい? 鑑は顔を伏せたまま立ち上がり、クルマから降り、私の正面に立ち、
「両方」
 彼は私の背中に両腕を回した。私は溜め息をつく。どうやら、まだ寝ぼけているらしい鑑を一端、押しのけて、私はクルマの鍵を閉めた。どうせ、この雨は、明日になっても止まないだろう。私の休暇が明ける午前零時まで、まだ半日もある。そうなれば最初から、鑑の勝ちは決まっていたのだ。
 私の手から缶を一本、取り上げると、
「遊佐(ユサ)」
 鑑は私を呼んだ。
「何だ」
「戻ろう」
 返事をするよりも前に、鑑は歩き出していた。
 私はもう一度溜め息をつくと、彼の後を追うことにした。


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