ガードレール(後編)



 静か過ぎて嫌になりそうな夜だった。ゆっくりと吐き出した煙草の煙が真っ直ぐに上る。それくらい、空気が動いていない。僕も、動いていない。多分、人生上、最も一本に時間を掛けた喫煙だったのではないかと思う。
 名残惜しく最後の一口を吸い終えて、短くなったフィルターの火を灰皿で完全に消す。ぬるくなり始めたコーヒーを飲み終えて、さて、とカップを掴んで立ち上がる。
 何か、足元で何か声がしたような気がしたので下を向けば、布団を被っていたはずのマドカが顔を見せ、目を開けていた。
「おはよう」
 茶目っ気よろしく挨拶を投げ掛けてみれば、
「…なに、もう朝?」
 布団にしっかりと包まったまま、マドカは如何にも眠そうな声で応える。
「いや、まだ真夜中。夜明けまで4時間半」
 律儀に答えてやると、
「ふうん」
 そんなことには興味がない、とでも言いたげに薄い視線で僕を見る。
「ねえ」
「なに」
 僕が訊くと、彼は本当にそれがなんでもないことのように、
「愛してるって言ってみてよ」
 ぽそりと言うのだった。
「なに?」
「愛してるって言ってみて」
 それは完全に不意打ちで、僕は咄嗟の返事が出来なかった。
「…なに、言い出すんだ。どうして」
「いいから」
 僕の返事などどうでもいいみたいに、ただ促すように顎を出す。
「いいから、って…、そういうものじゃないだろう」
「なにがさ」
「いや、だからね」
 僕は少しだけ考えて言う。
「そういうことは、好きな人に言うことだろう」
「分かってるよ、莫迦じゃないの」
 正論を吐いたら、あっさりと淘汰された。
「どうして僕がきみンとこに泊まりに来たのか、知ってるくせに」
 どうやら彼も承知で家に転がり込んできたらしいことを知って、つい苦笑が漏れた。それが彼には気に入らなかったらしい。引き下がれなくなったように、口を尖らせる。
「言ってみて、って言ってるだけだろ」
「だから」
 僕は溜め息をついて言う。
「それは僕がきみに言うような言葉じゃないし、そんなことを頼むきみは、…正直、ちょっと、今、変だぞ」
「だから、分かってるって」
 彼は言う。
「試しなんだ。遊びなんだよ、これは。言うべきだとか言うべきじゃないとか、そんなことは関係ないの。それを言うときにどんな感じなのか、言われるときにどんな感じなのか、それを試したいだけなの」
「だからって、僕は」
 一度、言葉が途切れた。いつの間にか、僕の右手には二本目の煙草があって、煙が上っている。全く無意識のうちに火を点けていたことに、僕は少なからず驚いている。
「それ、僕のだろう」
 子供の悪戯を見つけて、けれどもそれを咎めないままに世間話を続けるような風に、それだけ、マドカは指摘する。
「普段は吸わないくせに、僕が持ってると、そこからこっそり取って吸うんだ、いつも」
「…知ってて、持ってくるのか」
 僕が訊くと、彼は小さく鼻を鳴らした。
「確信犯だよ。言い逃れなんて出来やしない」
「ああ――、飴の代わりか」
 短く息を吸い直して僕は続ける。
「けれど――、そういうことは、やっぱり信念上、安易に口にしたくないね」
「いいじゃない、減るものじゃなし」
「よくない」
「いいよ」
 僕は首を振る。
「僕がよくないんだ。気持ちの問題だ」
「あそう」
 気のない返事をして一瞬だけ視線をそらし、戻して、彼は言う。
「そんなに、くだらないことかな、これって」
「ああ、くだらないね。とてもくだらない。全く、くだらない」
 折れずに僕は言う。
「そんなこと、軽軽しく口にしてみろよ。安っぽいことこの上ない。気のない言葉ほど価値のないものはない。思ったことを全部口に出すのと同じだ。言わなきゃ分からないことと、言わなくても分かることは、同じじゃない。言って分からないことと、言わなくても分かることが同じくらい意味のないくらいにね」
「はぐらかさないでよ」
 マドカは微かにむくれた口調で、
「好き嫌いの話じゃないんだ。本音がどうとか、そんなことは関係ない。ただ、その言葉を知っているかどうかで、人の生き方が左右されることがある。こうやって無駄話をしている間に、つまり僕たちは無駄な生き方をしているんだって相手に悟られないようにさ…、無駄話が、どうか自分にとって少しでも相手より有意義な時間でありますようにと、心の裏で思っているかもしれない。」
 もしかしたら夢うつつなのか、妙に饒舌に喋る。
「それでも――」
 僕が弁解しようとすると、マドカはそれを塞ぐ。
「それでも? だったら、一つだけ訊くよ。これに答えるか、僕の言うことを聞くかだ」
「…なに」
 彼は布団から片手を出して、僕に耳を貸すように小さく人差し指を動かす。僕らの他には誰もいない静かな部屋で、けれど密やかに告げられた言葉。
「――」
 絶句した。
 僕の負けだ。
 とうとう、僕の側が折れた。その言葉をマドカが用意していたということは、最初から僕の負けは確定していたも同じだったのだ。
「言うだけだぞ」
「分かってる」
 僕は言うと、彼は小さく頷く。
「こんなこと、もう頼むなよ」
「分かってる」
 僕は不承不承、その言葉を口にする。
「――愛してる」
 すると、
「僕もだ」
 ばさりと額まで布団を被り直し、マドカは再び黙り込んだ。僕の指先から、長い灰となった煙草が落ちた。それはテーブルに小さな混沌を作り出す。一瞬だけそちらに目をやり、そして僕はマドカを見遣る。
 布団の中からは、また、静かな寝息が聞こえてくるばかりだった。
 そのときになって、ようやく、僕は彼が最初から狸寝入りをしていたのだという事実に気が付き、すなわち僕が『彼が眠ったのだ』と思い込んだがために口にした彼の名前を、彼自身がしっかりと耳にしていたのだと知って、どうしようもない焦燥感に襲われることになったのは言うまでもない。
 そうなってしまうと、僕のその言葉は、果たして僕自身がマドカに向けて発したように『無駄な一言』でしか有り得なかったのか、それとも、マドカの言うように『無駄な生き方』にならないようにとの一途な望みの片鱗と成り得たのか否かについて、少々、真剣に考え始めなければならないのだろうかと、しばしの逡巡をももたらすようになったのである。
 とりわけ、今夜は、長そうだ。僕はとうとう、四本目の煙草を取り出し、口に咥えることになるのだった。


目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送