ガードレール(前編)



『泊めてよ』
 円(マドカ)が訪ねてきた時間帯に、丁度僕は風呂に入っていた。当然布一枚も身にまとわない状態でバスルームにこもっていたのだし、シャワーも全開だったから、彼から掛かってきた電話に出られるはずもない。カラスの行水とまではいかないけれども、ざっと全身を洗ってタオルに身を包んで、まだ髪から水が滴っているな、と部屋に戻って前髪を掻き上げたときに、テーブルの上のケータイが着信を受けていたことを示すランプが点いているのに気づいた。
 二つ折りのケータイを開いて確認したら、僕が入浴していた十数分間に、きっかり1分おきに十四回の着信が入っていた。勿論、全て円からのもので、僕は自分の入浴時間が大体十四分間だったことを知ったわけだが…、そんなことはどうでもいい。恐らく、ここ1分以内に彼は、また僕に電話を掛けてくるだろう。十四度も電話を掛け直すなど、普通では有り得ない。余程何かあるのだろうと、僕はリダイヤルボタンを押して、彼に電話を掛ける。
「もしもし」
『泊めてよ』
 受話器越しに聞こえる彼の第一声は、ある程度の心構えをしていた僕にとっても、はっきり言って唐突だった。
「なんだって?」
『泊めて欲しい』
「泊め…、って、家にか」
『そう。いいでしょう』
「いや、悪くはないけど」
『悪い?』
「悪くないって。でももう随分な時間だぞ」
 壁に掛かった時計を見ながら示唆すると、受話器の向こうでマドカが不貞腐れたような雰囲気が漂うのが分かった。
『どうせまだ寝ないくせに』
「まあ、それはそうだけど」
『じゃあ、開けて。入れて』
「なにを」
『家』
 一瞬、彼が何を言っているのか分からず、僕は呆けたように問い返す。
「だから、なにを」
「莫迦ッ。これだよこれッ」
 円が怒鳴ると同時に玄関から扉を蹴り飛ばすような音が響いて、僕は不覚にも驚いてケータイを取り落としそうになる。慌ててケータイをすくい上げて、
「なんだ。そこにいるのか?」
『気づけよ、莫迦』
「…ちょっと待ってな。まだ、風呂から出たばかりなんだ」
『言い訳じゃないよね』
「後で頭に触れば分かる」
 そこまで下手な言い訳はしてこなかったつもりだが。僕は通話状態のままのケータイをテーブルに置いて、下着にシャツ、洗いざらしのジーンズを履いて、被っていた濡れたタオルを洗濯籠に放り込む。受話器から何か、悪態をつくような低い声がしたけれど、返事はしなかった。代わりに苦笑いをひとつ零して玄関に向かう。ケータイを拾い、指先で軽く弾いた。
「そこで待ってたのか、ずっと」
『待たせたのは誰だ』
 扉を開けて、僕は電話の相手、本人に直接返事をする。
「それは不可抗力だ」
 口元が歪んでいたかもしれないが、それは、まあ仕方のないこと。
「嫌いだね、そんな言い訳」
 正面に円が立っていた。白いコートと黒いセータと青いジーンズと茶色いスニーカ。夕方に彼と別れたとき、そのままの格好だった。ただ、その表情は全く異なるもので、僕は笑みを引っ込める。ほんの少し俯いた顔が、垂れ下がった長めの前髪で半分隠れていて、その隙間から上目遣いの円が呟くように、
「僕だって、嫌いだったら来ない」
 そう言った。
「は…、じゃあ、好きなんだ」
 引っ込めていた笑みが、直ぐにまた浮かんだ。
「なにがさ」
「僕のところに来るのが」
 最近赤茶に染めたらしい頭の、旋毛の辺りを眺めながら不意に茶化してみると、上目遣いが三白眼になった。
「…莫ッ迦」
「まあまあ、散らかっていますが、どうぞ」
 罵倒を無視して、訪問客を招き入れる。
「よく言うよ」
 円は口を尖らせる――ように見えた――仕種をして、扉を開けた僕の横をすり抜けるようにして玄関に入り、靴を脱ぐ。
「チャイム鳴らせば良かったのに。そしたら僕だって直ぐに出たさ」
 鍵を掛け直しながら背中で僕が言うと、
「風呂に入ってた人間がなに言うの」
 成る程、それはその通り。僕は両手を上げる。
「それは悪かった」
「謝らないで」
 円の声が、ほんの少し高くなった。
「悪い」
「謝らないで」
「ああ」
 押し問答を終わらせるためか、円はぐしゃりと僕の髪を掻き混ぜた。
 勝手知ったる他人の家で、円は真っ直ぐに部屋に入ると、コートを脱ぎ捨てるように床にバサリと置くと、ベッドサイドに腰掛けた。どちらが客か分からない。鷹揚とはとても言えない声音で、
「今日、泊めてよ」
 円は、やはりその台詞を繰り返した。
「なんだ…、本当に泊まりに来たのか」
 十四回もコール鳴らして。
 そう僕が言うと、
「帰る家はあるさ。でも今日は、そういう気分じゃない」
「どうして」
 察しが悪い人の振りをしてみる。答えは明確なのだが、円はしばらく逡巡する風で、
「分かってるくせに」
「分かってる。本当に、しょっちゅうきみは喧嘩してるな」
 僕が混ぜっ返すとひらりと掌を振って見せた。あまり直截なことばかり言っていると引っ叩くぞ、とでも言いたいらしい。
「喧嘩じゃあ、ない。お互いにゼロにしただけ。そう取り決めたんだから、後腐れなんてないよ」
「何処が。今のきみを見れば、『後腐れ』の固まりみたいだって誰だって言うよ」
「いいんだよ、本人がそう言ってるんだから」
「言ってるのはきみだけだ」
 ばふん、と円は音を立ててベッドに仰向けになる。僕はまだ立ったままだ。髪だって少しも乾いてはいない。
「コーヒーでも、飲むかい」
「いらない」
 僕の提案に、全くぶっきらぼうな調子で円は応えた。
「あそう。僕は飲む」
 キッチンに行って、ケトルを火に掛けた。幾つか思い当たることを思い出しては、喉の奥でくつくつと笑う。円が飛び起きて殴り掛かってくるのを避けるために。
 部屋に戻ってくると、そんな数十秒の間に、円は完全にベッドの上で横になっていて、毛布まで引き寄せてしまっている。直ぐにでも眠り出しそうだったので、僕は流石に『借りてきた猫』の正反対の行動を取る彼に呆れながら、「寝に来たのか、本当に」
「そう」
「床は寒いから、僕も隣で寝るけど。蹴っ飛ばしても知らないぞ」
「好きにして」
 冗談混じりに言ってみたら、円は掛け布団を引き上げてそんなことを言う。
「…たまには客らしい気遣いが欲しいね」
「放っといて」
「どっちがだ」
「五月蝿い。もう…、眠くてイライラしてるんだ。もうずーっと放っといていいから。余計な注文はしないから、寝させて」
 自分勝手な猫のようなことを言う。本当に眠気に襲われた機嫌の悪い人間は、それを妨げる者には全く容赦しないからタチが悪い。どちらが客でどちらが主人なのか分からない。
「――寝たのか」
 どうやら本当に眠り込んでしまった円を見て、僕はそっと溜め息をついた。
 床に放り投げていた円のコートのポケットから、タバコの箱を取り出す。キャスターの5ミリ。僕の家に来るときには、彼のポケットにはいつもタバコが入っている。封は空いているが、中身は減っていない。
 一本抜き出して、一緒に入っていたライタで火を点けた。ゆっくりと煙を吸い込んで、吐く。もう一度、煙を吸う。口の中で味わうように舌を動かし、吐く。手近な空き缶に灰を落とす。
 円の恋愛観がどのようなものなのか、僕は直接には知らない、けれども、一人の相手と長続きしないタチなのは間違いないようだ。というより、彼が彼の称する恋人と一緒にいるところを見た覚えがない。余程彼は、恋愛事に縁がないのかもな、とも思う。
 いつ始まったことなのか、恋人と喧嘩別れをした夜には、決まって彼は僕の家へ来る。何をするでもなく、不機嫌な態度を見せて、その理由を自ら話すでもなく、慰めを求めるわけでもなく、一晩泊まって、次の朝にはさっさと帰っていく。まるで、それが一連の収束を迎えて出直すための儀式であるかのように。
 僕が彼と知り合ったのはそれほど昔のことではないから、かつては僕のように『宿泊先』にされる奴がいたのかもしれない。多分…、いや、十中八九、僕は彼にとって、そういう位置付けの存在なのだろうと思う。今日に始まったことではない。今晩で幾度目だったか…、きっと、片手では数え足りないだろう。余程、僕は酔狂に付き合わされるのに慣れ始めているということか。
「――円」
 面と向かい合っては、名前で呼んだりはしない。そうやって、彼が眠ってしまってようやく、その横でその人の名を呟く。臆病者のなんとやら、ではないが、僕は己が酔狂な態度をとることには慣れていないと、幾度も思い続けているのだった。
 つい先程までの刺々しさは何処へやら、やたら平和そうな顔つきで眠っている円を眺めながら一本のタバコを吸い終えて、吸殻を空き缶に押し込み、立ち上がると自分だけのためにコーヒーを煎れながら、僕はぼんやりと思っている。
 今夜はまだ、当分、眠れそうにもない。


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