荒野



「ただいまあ」
 僕が扉をくぐって家に帰ってくると、
「おあえりぃ」
 なんだか言葉になりきれていない返事が聞こえた。多分、『お帰り』と言っているのだろう。
「ただいま」
 もう一度僕は彼に向かって言って、
「やあやあ、アヤセ、おあえり」
 もう一度彼は僕に答えた。声とは裏腹に、心底つらそうな顔をして。
 ティッシュを一枚取り出して、鼻を拭う。鼻が詰まっていたらしい。
「うう、気持ち悪い」
 重そうな息を一つついて、彼は僕に向き直った。
「アヤセはいいねえ、お散歩出来て」
「莫迦にしてるの、それ…」
 僕は不貞腐れる振りをしてみるが、彼の言葉が半分、本心であることを知っている。
 と思っているそばから、早速、
「っくしょん!」
 盛大なくしゃみを彼はした。それはもう、顔の横に吹き出しをつけて漫画の台詞の如く読み上げてやろうかしらと思ったくらいの。
 思ってはみたものの、それを想像するだけで僕の方が情けなくなってきたので止めたくらいの。
 そう、彼は極度の花粉症なのである。
 季節の変わり目、大気中に花粉が混ぜ込められるこの数週間というもの、彼は軽い軟禁状態に入る。
 病気に罹ったわけでもないし、怪我をしたわけでもないから、本当に、部屋の中に単純に閉じ込められるだけのこと――、まあ、倦怠感や風邪の初期症状にも似た数々の苦しみが彼を悩ませていることは、想像に難くはないだろう。
 無論、それをしているのは彼の自発的な行動だから、誰もそれを咎めることをしない。むしろ、誰もがそれを推奨しているくらいだ。誰がいつ、彼の症状を重くしないとも限らないから。春先だけは、彼の友達付き合いが極端に狭くなる。
 くしん、くしん、とくしゃみを連発する様を見ていると、次第に可哀想になってくるから不思議なものだ。
 何か僕に出来ることがあればいいのだけれど、せいぜいが外から帰ってくる際に、目には見えない花粉をパタパタ払ってくるくらいのことしか出来ない。
 そうでなければ、彼をこの世から完全隔離するか或いは、僕が彼にしばらく近づかなければいいのかもしれないけれど。どちらも中途半端に消極的な対策だと思う。
 何せ、彼がこの季節一歩でも外界に出ようものなら、その途端に、死ぬ。
 いや、決して比喩に思えないから、怖い。
 いやいや、本当なのだ。知らない人ならば幾らなんでもそれは言い過ぎだろうと思うに違いあるまいが、本当なのだ。
 アレルギイという奴を舐めてはいけない。彼の場合、本当に、死ぬ。きっと死ぬ。
 ああ、やっぱり結局のところは比喩なんだろうけれども…、僕がそれくらいに本気で言いたくなってしまうくらいに、彼の症状と言ったら酷いのである。それとも、花粉症で死ぬ人間という奴が、この世には本当に存在しうるのかもしれない。
 つまりは、そういう強迫観念に取り付かれているのは、彼の共同生活者である僕の思う所以に過ぎないのかもしれないが…、でも、彼を外に一歩でも出そうものなら悲劇としか言えぬ参上がてぐすね引いて待ち受けているかと思うと、それだけで背筋が震え出す。まるでホラーである。
 彼が無防備に外出するということは、すなわち何も持たずに荒野に散歩に出掛けるのと同じくらいに勇気がいるだろう…、というのは、彼の近くに長くいて僕が感じる確信の一つだ。
 そんな彼が、ひとしきりくしゃみをして、もういい加減に飽きただろうという頃になって、ぽつりと呟いた。
「おかしいなあ…、実は昨日辺りから、急なんだよねえ」
「急?」
 彼の言い方に、僕は少し怪訝な顔をしてみせる。
「昨日どころか、ここ一週間は俺、外に一歩も出てないよなあ。玄関のドアだって開いてないんだぜ? エアコンも使ってないし、一体何が原因なんだろう…?」
 首をひねりながら彼はそう口にして、成る程、と僕も思った。確かに、完全防備の心意気で生活をしている彼にしてみれば、ここ最近の発症には疑問を感じないでもなかった。
「花粉症って、部屋の中のホコリとかにも反応するのかな? ひょっとして」
 ふと、気付いたように彼は言った。
「ああ、あるものな、色々。ペンキとか、工事の粉塵とか、あと――」
 そして――、その視線が僕のそれとかち合った。
「アヤセ?」
 彼の口が僕の名を呼び、
「どうした、アヤ――、っくしょん!」
 僕の尻尾を撫でかけた彼の指が、くしゃみと同時にびくん、と跳ねた。
 それで僕は反射的に彼の膝から飛び降りて、部屋の隅に逃げ出している。
「アヤセ?」
 すん、と鼻をすすりながら彼は不思議そうに僕を呼ぶ。けれど――、
 僕はしっかりと見ていた。彼の指の先に付いていた、細長い僕の毛。
 季節の変り目。
 毛の抜け変わる季節――。

 彼に近づけなくなった。いや…、そんなレベルの話ではないことくらい、直ぐ様、僕は悟ってしまっている。
 どうしよう。僕は途方に暮れていた。


目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送