実像が虚像



 金魚の首がふたつに増えていた。
 そう見えたのは気のせいで、本当は、みっつに見えていたのだ。
 ふたつに見えていたのは僕の右目だけで、左目は普通に見えている。普通に見えている、というのは、ひとつの像がひとつの像として目に見えているということで、つまり僕の両目の重なる視界には、金魚の首がみっつ、見えているというわけなのだ。もっと正確に言えば、右目側の像がそもそもだぶっていて、その半分に左目の方の像が若干、重なって見えている、ということになるのだろうか。興味深いことに、分裂して、それとも幻想的に、僕の右目に見えているのは金魚の、本当に首の部分だけで、いや、金魚に首などありはしないのだが、そう表現する以外に方法がないのだ。大体、目があって、口があって、えらがあって……、そのえらの真ん中ぐらいだろうか、そこから先が二倍の像になっている。人間で言うところの、首、ということだ。そう、頭なのだ、僕に多く見えているのは。そこから先の部分、背びれやら尾びれやらは、全く、普通の金魚である。その辺の金魚よりもボリューミィで小さなフナとかコイとかなのではないかと飼い主自らが悩んでしまうくらいの金魚なのである、コイツは。
 はて、どうして僕の右目には生き物の頭だけが倍の数に見えているのだろう、そう考えながら、視線を落としてみる。そこにはカメがいるのだ。クサガメである。五百円玉よりも小さかったサイズのときに近所のホームセンタで見掛けて、衝動買いならぬ衝動飼いというやつで、もう二年ほどになるだろうか、もう掌には納まり切らないくらいの大きさにまで育って、現在も順調に育っている。人の言葉は解しないが可愛い奴である。というと語弊があるだろう。人の言葉を解しているのだ、きっと。彼にも。いや、彼なのか彼女なのか、僕には分からない。知ろうとしたこともないし、調べてみたこともない。教えてもらったこともないし。金魚に名前がないように、カメにも名前はない。多分僕は、犬や猫を買っても、犬、猫、と呼ぶだけなのだろうと思う。ひとり暮らしの家で同居する動物を、わざわざ声に出して名前を呼ばなければならないほど、孤独から逃れたがっているのだろうか、人は。いやいや、これにも語弊がある。誤解を招くようなことを言ってはいけない。
 カメの首も、これは金魚よりも余程分かりやすく、甲羅から表に出ている頭の部分がそっくり、二倍の量になっている。頭がふたつあるのである。既に金魚で確認出来ていたことなので、今更驚かない。可愛い顔がふたつになっていたところで、何を恐れ戦くことがあるだろう。そんな必然性は有り得ない。頷いて、僕は洗面台に向かった。生き物の首が二倍になり、僕の目には三倍に見えるという現象である。一体、観察者である僕自身の顔を僕が見たならば、僕の目にはどのように僕自身が映って見えるのだろうか。
 鏡を覗く。
 あれ?
 ない。
 首がないぞ。
 視線を落とす。自分の胸から下が床に立っているのが見えた。
 視線を戻す。曇りのない鏡である。そこには首から上のない、男らしい人間のトルソーが立っていた。客観的な見地において対象を増大して捉えることとなっている僕は、その観測的地位において、他者よりもアドバンテージを得るようなことはなく、その逆に自身の存在を同じ分だけ喪失している、ということか。他者の場合は単純に等倍しているだけだというのに、僕自身は完全に喪失してしまっている。これではそもそもの観測点を、つまり原点であるひとつ、僕の顔がどんなものだったかが分からないではないか。これでは困る。何が変わって、何が変わっていないのかすら分からないのでは、あってもなくてもどうでもいい、というのと同じではないか。
 困った。
 それでは、この首のない、恐らく男なのだが、この鏡に映った虚像を観測しているのは誰なのだ。僕には首がない。顔がないのだから目がない。だから鏡に映った僕を見ることなど出来ないではないか。頭がないのだから、目以外の何らかの方法をもってして僕の姿を捉えていたのだとしても、頭がないのでは僕はそれを知覚し、理解し、思考することが出来ない。僕が二倍になって、あるいは三倍になって、という次元の話ではない。そんなことは些細な話だ。見間違いとか突然変異とか隔世遺伝とか、そんな在り来たりな説明で片がつく。しかし頭がないとなっては話が違うというものである。
 僕は頭を抱えた。


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