テナント募集中



 営業で外回りをしているいつものルートに、なんだか見覚えがある男がいるな、と気づいたのは、一昨日くらいのことだっただろうか。何故気づいたのが一昨日だったのかというと、昨日も、今日も、その男は同じ場所に立っているからだ。たまたま、僕が彼の存在を覚えている、意識に留めているのが一昨日からのことだっただけで、それ以前のことは、僕は覚えていない。
 その男は、僕らと同じ、目立たない、ダークグレーのスーツに身を包んで、藍色と白のネクタイを結んで、真っ白なシャツを着て、上着と同色のスラックスに、黒い靴下黒い革靴で、心持ち俯き加減に、とある店の前に立っているのだった。
 その店はとうの昔に……、といっても、精々十年弱くらいだろうけれど、畳んでしまっていて、今は『テナント募集中』みたいなプラカードが貼り付けられているだけの空き家だった。その店の周囲には長屋のようにテナントが入っている区域で、男が立っていたその一軒だけ、いつまでも店子が入らないので不思議に思っていたのだ。思っていた、といっても、それこそ、思い出したときにだけなんとなくそう思うだけの、取り立てて興味深い対象でもない。テナントというのはそもそも入れ替わりの早い物件であり、以前の店が何を商売としているのか分からないままに潰れてしまったりすることも珍しい話ではない。
 男の話である。そのいつまで経っても『テナント募集中』の店の前を通る度に男の姿を見掛けるようになったので、ついに五度目に僕はその男の前を黙って通り過ぎることが出来なかった。かといって、
「貴方はどうしてここにいつもいるのですか?」
 なんて初対面の相手に問いをぶつけるほど、作り話の登場人物みたいな考えなしの行動を取るような人間ではない僕は、一度通り過ぎた彼の隣の店の前で立ち止まり、ディスプレイを少し見遣る振りをした。文房具店である。少し値の張る万年筆やらボールペンやらを眺め、そしてこっそり横目で男の顔を伺う。やはり、特に特徴があるわけでもない、何処にでもいるような男だった。若いようでも若くないようでもある。俯いた視線は、特に何かを視界に捉えているようにも見えない。彼は一体どうして、ここにいるのか。ずっと、ここにいるのか。それとも、何らかの目的を持ってして、ここにいるのか。
 と、すい、とその顔が右を向いた。その正面には、僕がいる。彼と、目が合った。
「次は、そこなんですよ」
 彼は、ぼそりと、そう言った。
 びくりと僕の背中が引きつる。言葉を投げ掛けられるとは予想していなかったので、僕は反応出来ない。
 ふっと、周囲の喧騒がなくなるのが分かる。
 急に、この辺りが、彼と、僕しかいない世界になってしまったかのような。
 次はここ?
 何がだ。次、ということは、現在、何かが、起きているのか。
 何処で。そこで? 男が立っている、そこで、ということか?
 そしてその何かが、今、僕が立っている、ここで、になるということか。何が?
 ゆらりと男の身体が前に倒れた。半分はそれは錯覚で、男はゆっくりと歩き出した。初めて、男が動く姿を目の当たりにした僕は、逆に全く動けなくなっている。男は、今、動き出した。男の中で、或いは、男の横で、男の周りで、何かが、終わった、ということなのだろうか。そして、次は、そこ? 僕がいるところ? それとも、僕自身? 次は、僕?
 僕は、動けない。
 動けない。
 動けない。
 動けない。
 シャッタが閉まる音。


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