プライヴェート



「またおいで」
 そう言われたから来たのに、アイツは愛想のひとつも寄越さない。
 出迎えた際の最初の一言は、
「なんだ、きみか」
 だったし、ドアを開け放って続けた一言が、
「今、仕事で忙しいから、中に入って、適当にしてて」
 だった。
 別にこっちはアンタの邪魔をしに来たわけじゃあないし、そこまで言われたら仕事の邪魔だったらお暇します、くらいの捨て台詞を投げてもよかったのだけれど、わざわざ出掛けてきてむざむざ顔を見ただけで帰るというのもなんだか癪だったものだから、
「分かった、適当にしてる」
 目も合わせずにそう言って、入り込むことにした。アイツは振り返って自分の部屋に真っ直ぐ向かう。最初にこちらを見たっきり、もう目も合わせない。そんな奴だ。
 勝手知ったる他人の家で、キッチンの冷蔵庫からペリエのビンを取り出して、細長いグラスに注いで飲む。最近やっと、ミネラルウォーターの炭酸入りが美味く思えるようになった。自分では買おうとは思いもしなかったものだけれど、ここに来て、こうやって冷蔵庫を探っているときに見つけたものだった。美味いも不味いもアイツには言ったことなんてないはずだけれど、いつも、二、三本はボトルが入っている。
 そもそも、アイツの水の好みなんて、知らない。炭酸水が冷蔵庫に入っている家の方がきっと、少ないと思う。大体、客を迎えられるような家のくせして、ソフトドリンクのひとつもなくて、ミネラルウォーターに限ってしっかり常備されているという根回しの良いのだか悪いのだか、よく分からない。
 リビングのソファで、適当にその辺の雑誌を読んだり、興味のないテレビ番組をザッピングしたり、エアコンを利かせて昼寝をしたりして、時間を過ごす。この上なく贅沢な時間の使い方だと思う。全く、時間の消費、浪費でしかないからだ。無為にもほどがある。その間にも、アイツとは全然、顔を合わせもしないし、声を掛け合ったりもしない。どちらかが一方の様子を見に行ったりもしないのだ。
 一体、なんなのだろう、この時間は。この空間は。これは、何かをふたりで共有していると言えるのだろうか。たまたま、人のいない空間にひとりが納まっている、というだけのことで、その空間の外側には何も干渉しない、影響しない。逆に、外側からも、その空間はぽっかりと切り取られたドーナツの穴のような存在であるかのような。
 そう思うと、この家に存在しているふたりは、全く別の世界の住人であるということになる。一方が訪ねていって、もう一方が出迎えて、けれども、全くの他人のまま。プライヴェートスペースは侵食されないまま。そういうことを考え付くようになると、俺は空恐ろしくなってきて、今日も帰る気になる。
 玄関で靴を履いていると、背後に気配がした。今日も、ふたりでは会話らしい会話すら、何もしなかった。もう幾度目になるのだろう、こんなことが当たり前になってから。奇妙過ぎる、不思議過ぎる繰り返しが、けれども、何故だか当たり前のものとして成立してしまっているのだから分からない。
「帰るのかい」
 空々しいとすら思える台詞に、俺は背中を見せたままで頷く。
「帰る」
 この期に及ばなければ、アイツは姿を見せない。けれども、ほんの一言、最後に発するのは、いつも決まっているのだ。
「またおいで」
 そしてそれを聞かなければ、俺も安心出来ないのである。
「また来るよ」


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