ピアノ線



「ピアノ線、ですか…」
 精神科病棟の一室。私の前に座った青年は、その言葉を耳にするのも恐ろしい、とでもいうように、怯えるような視線を私に向けた。
「そう、です。あの細い糸が暗闇に張られているんじゃないかと思うだけで、夜の外出が出来なくなる。もしそれに首を引っ掛けてしまったら、と考えたら、とても――」
 彼はそう言って、首を振った。
「……夜だけじゃない。昼間だって、もしかしたらそこら中に線が張られていて、僕の命を奪おうと待ち構えているのかもしれないんです」
「ですが」
「そんなことはない、とどうして言い切れますか? 切って捨てるには考えが雑というものでしょう。細い糸など、最近では簡単に手に入る。ほら、釣りに使うテグスなんて、如何にもだ。あれが細い道の壁の両端に張られているんじゃないかと考えるだけで――」
「……お話は分かりました」
 私は言葉を挟み、彼の話を止めさせた。
「ですが、実際にこれまで、そんな事故が起こったという話を聞いたことがありますか?」
「……いえ」
「でしょう? 大丈夫。そんな馬鹿なことをしようと思う人はいませんし、第一、糸に触れただけで簡単にものは切れませんよ。包丁だって、押し付けるだけでは直ぐには切れないでしょう? 接点の少ない糸なら尚更だ。気に病むことはない。貴方の言うピアノ線だって、実は案外太いものなんです」
「そうなんですか」
「そうです。見えない、と思う、その思い込みがいけない。それでも不安なら、いっそ、その糸を見透かしてやろう、というくらいの気づもりでいたらいいのではないですか? 見える危険なんて、避けるのも簡単だ。絶対に、安心だ。でしょう?」

 私の話に彼は半信半疑ながらも一応、納得し、帰っていった。私は椅子に深く身体を預け、ゆっくりと溜め息をつく。
 ……精神科医というのは、時に嘘を方便に変える話術を必要とするらしいが、今回のような強迫神経症の患者に対するカウンセリングの場合、それはあくまで本人の思考に住まう不安の現れに過ぎないのだと説得しなければならない。強迫観念というのは恐ろしいもので、それは現実には存在しないと理性では分かっていても、深層で世の中を拒否してしまうようになるのだ。
 私が、この精神病院への入館以来、一歩も外に出られず、いつしか入院患者への誰よりの共感者としてカウンセリングを担うようになってしまった経緯には、そんな理由がある。
 ピアノ線か……、これで、また、私の強迫観念がひとつ増えたな、と自覚した。


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