死神たちの断章


 ――とても、静かだった。
 静か過ぎて、その幽遠の沈黙が耳に痛いほどだった。
 湿った夜の吐息が、首筋から背中に舞い込んできて、怜依は首を竦めた。
 まだ夏には程遠い、けれどもその気配を確実に感じる終春の夜には、時折遅刻してきた冬の名残がまだ闇夜に現存していて、季節の回遊に似合わない寒気の匂いを未だ感じさせる。
 その意味では、彼の装束は季節感を無視しているとは一概には言い難かった。今宵は肌寒く、表に肌を晒すところが少ない青年の姿も、却って冷ややかである。
 その格好で真昼に都会の雑踏を歩いたならば人の目を引きつけずにはいられまい、という黒尽くめの上下にやはり黒い外套を羽織った装束は、本来ならば春よりも夏に近いこの季節には似合わない姿だろう。
 さわさわと何処からか梢の葉群れの揺れる音が聞こえていたが、緑の気配は、その場には希薄だった。その言葉の上の表現通り、蒼や翠の色がその庭には極端に少ない。
 水を砂で、土や木々を石や岩で表現した、枯山水の庭園である。
 瞳に優しく映る色が存在しないというだけで、小世界はこうも寒々しく見えるのだろうか。
 彼はそれを、屋敷を囲む塀の脇に立ち、壁の影に身を宿すように、言葉もなく、感情の薄い表情で見つめていた。その面には感慨の色など希薄で、自然を用いずに自然を描こうとした枯山水の様相と平行に対峙するようで、夜の秘めやかさとの同調でもあるようだった。
 青年の口元に無造作に銜えられた一本の煙草から、紫煙が細く上っている。無心に見遣れば、彼の周囲には薄紫の紗で撫でたような趣が漂っているのが感じられたかもしれない。
 二度三度と空中に煙を吐き出した後、彼は爪先でそれを弾いた。弧を描きながら落下していった。一本のシガレットは、地面に落ちるや否や青年の靴で土の中に埋め込まれ、姿を消した。残像すらも残さずに、灰の欠片も空虚に散った。
 枯山水の薄跡は、鴉の濡れ場色より濃い、夜という色の中に完全に溶け込んでいる。だが、今は天から月夜が淡く全てを照らし出している。欠けたところがない満月の夜だった。
 太陽の光よりも月の光は妖艶で、木々の代わりを務める庭の構成要素たちに静かにしみ込み、恐るるに足る英気を養っているようにも見えた。
 それは、察するところによると彼だからこそ感じたことなのかもしれない。それは、怜依が常人と異なるとも言える存在であるからだ。
 彼の身に纏う雰囲気だけでもそれは確信に足るが、月影に映える色の薄い細い髪、そして細面の中の目の鋭さと全身黒一色の衣装だけでも、月の下の情景には不似合いで、何者かがその場に居合わせたなら、決して彼の視線の先に留まろうとは思わなかっただろう。
 望月の深更、怜依は屋敷に現れた。平屋建ての、しかし壮厳な趣を持つ木造家屋の旧家。
 街から外れた林の脇の、九十九折の坂の先にひっそりと立つその屋敷の門は、固く閉ざされていた。正面の門の脇の小門や、裏の通用門すらも内側から閂が掛けられていたが、…しかし怜依に強固な施錠が役に立たなかったのは、言うまでもない。
 煙草の余韻を楽しむように夜気を嗅いだ後、彼は動いた。
 タッ、と地面の感触を確かめるように一歩目を踏み締める。鴉色の外套がふわりと風にたなびき、彼の口からは、フッと小さく吐息が零れた。天空の月を見上げる瞳の色は薄く、光りの色に見合った上弦の月の面影を垣間見せるようだった。猫の瞳のように闇の中で細められ、また月の光を無意識に求めて開かれるそれは、彼らのみが持つ闇の光を帯びていた。
 ザリッ、ザリッ、と足を踏み出す度に小さな音が擦り出された。一面に敷かれた砂利の立てる音だった。枯山水の敷物は、編上げ靴に無造作に踏まれ、しかし元々のそれが整然とした自然の様相を目指していたものであれうのならば、或いは沈黙の侵食はあって然るべきものだったのかもしれない。
 雨や風は自然に対する侵略であると呼べるのだろうが、しかしそれらもまた自然の一環として存するものだ。ならば、人為的な自然は、人為的な侵略によって侵されるのが妥当…、そう思うのは可笑しいことだろうか。
 少しずつ、怜依は建物に歩み寄っていく。月影が彼の影法師と代わり、漆喰塗りの白い壁に黒い人形の姿を映した。庭にポツポツと配置されている石灯篭に小さな火が点っていて、青年はその間を縫って歩く。砂の池を壊しながら。
 その時。
 何者かの声が聞こえたように思え、彼は無意識に手足に緊張を施す。咄嗟の反応にしては過剰だが、しかし彼の生業と、この場に赴いた目的を重ね合わせて捉えたとき、やがてその意味が明確に見えてくる。本来なら闖入者である彼は、その相手が誰であれ、警戒心を解いてはならないとされるのが常なのである。
 だが――、ナァオ、という鳴き声で、怜依の周囲の張り詰めた空気は瞬時に緩む。
 青年の足元で、彼を見上げて小さな声を上げるのは、一匹の猫だった。闇の中に光る細い蒼の瞳と、月光に映える艶やかな体躯。その姿は青年と比べれば雲泥のものだったが、沈黙を引き連れたその庭では、その生の存在感は十分だった。
 その場に屈み、そっと青年は小猫の背に掌を滑らせた。身を退くこともなく、猫はされるがままにしている。青年の指先には殺気の気配は零れておらず、本能のままに行動する猫はそれを敵愾心のない相手だと認識したようだ。
 暫く、青年は小猫の背を撫でながら、静かに意味のない呼吸を繰り返す。
「お前は…、ここの間借り人か?」
 彼は、意図せぬ潜めた声でその小さな生き物に問う。
 その庭の空気に沿うような漆黒の毛並みをした小猫は、
「ナァウ」
 彼の質問に、滑らかとも取れる鳴き声で応えるのみだった。彼が屋敷の住人であるのか否か、その態度で図り知ることは出来なかったが、しかしその囁きは、或いはその問いに対する答えの代用とも取れたかもしれない。
 兎に角、青年にとっては、その猫の存在は他の野良猫に対する思いと等しく、…それは即ち、彼らがどの土地にいようとも、また誰に飼われていようとも『猫は猫である』という事実に変わりはないのだ。
 猫は元来、単独で生きる存在である。彼もまた、永木に渡って孤独を共に連れて生きてきた。野良猫と青年の生き方に違いがあるとすれば、猫たちは自身の命を生かし続けるために世を生きているのに対し、彼は他者の命を左右する目的を胸に世界を駆けているという、些細にして大きな差異のみだろう。
「屋敷の主は在宅か?」
 彼の再びの問いにも、やはり言葉での答えは為されない。しかし、
「――と言ったところで…、手引きは望めまいが」
 彼は小さく微笑むと、猫の喉から手を離した。
 …既に彼の捜し人の居場所は知れていたからだ。
「またな」
 もう一度猫の頭に手を置くと、青年は玄関に足先を向けた。
 背後から再び柔らかな鳴き声が聞こえ、…それが名残惜しげに感じられたのは気のせいだろうか。
 庭の中央付近から、正面玄関に続く作り林へと至り、仄かだった小路の灯が僅かに多くなった。真夜中とはいえ、客人を迎えるための灯火が未だ残っていることに期せずの皮肉を感じ、怜依は小さく笑みを浮かべる。
 飛び石をゆっくりと渡っていくと、間も無く重厚な趣の玄関が見えてくる。横開きの木の戸と、その脇に飾られた柱賭け式の筒に生け花が一輪。…菖蒲の花だった。
 檜の外枠に玻璃の填め込まれた扉に指を掛ける。カラリ、と小さな音を立てて、あっさりと戸は開いた。その呆気なさに、青年は却って拍子抜けする。彼の侵入に対する事前の警戒を彼自身が予想していたわけではなかったが、しかし日常あって当然である賊への心構えすら感じられなかったことに、苦笑いすら浮かんだ。
 もっとも、施錠の一つや二つあったところで、彼には無意味だった。しかしこの分では、開錠術から経路のない侵入通路の捜索など、密偵に必要な知識と技術を必要とせぬまま夜を終えてしまいそうで、怜依は鼻白む。
 しかし…、彼は賊の類ではない。
「届け物は…、主の密やかな眠り、か」
 誰にともなしに、彼はそう呟いた。不謹慎な考え事をした者がするように、軽く首を振って言葉の残像を追い払う。
 特定の相手に死をもたらす――、それが今回の、彼の為すべき務めであった。
 夜の闇は、即ち死神の抜跋する刻である。

 三土和を上がったところには、水墨画の描かれた衝立が置かれていた。来客人に廊下の奥を無闇に見られないようにとの配慮であろう。だがその場においては、そもそも出迎えなど彼には必要なかったし、望んでもいなかった。
 不意の客人である怜依を迎えようとする者とていなかっただろうが、彼は無言の一礼の後に編上げ靴の紐を解きに掛かる。土足で他人の住居に上がらないという信念があったわけではないが、それは枯山水を僅かに乱したことへの、彼なりの小さな配慮の欠片だったのかもしれない。
 廊下に進んだ後も、屋敷の静けさは依然として続いていた。転々と置かれた灯が儚げですらあり、その居場所を正確に伺い知ることが出来ない。
 単純に現在留守にしている、というものでもないだろう。表門の施錠が完璧であったのに、肝心の玄関口の扉が開いたままだった、では無用心もいいところだ。
 辺りを見渡す。長く続く廊下の両側にある数々の襖は、それぞれが何らかの部屋へと続いているだろう。物音は全くせず、怜依の衣服の衣擦れと、足裏が立てる乾いた擦れ音だけが聞こえる。
 廊下を幾度か進み、屋敷の奥に進んだとき、
「ん…?」
 ことり、と音が聞こえたような気がした。耳をそばだてると、確かに遠くないところから、微かな物音は足の裏を通じて響いてくる。
 少なくとも夜も既に更け、丑三つ時もかくやという頃合に、未だ覚醒している人間がいる。それに相対し、他の家人の気配がないという異常とも思える現実が、彼の周囲の空気を固くする。
「もしや…、元よりこの屋敷に居る者が、独りだということか?」
 青年は確かめるように呟く。それを裏づけるかのように、彼の潜めた声は細やかなものだったというのに、妙に屋敷の壁に反響して聞こえ、彼は直ぐに息を詰めていた。
 無作為に選んだ襖を開けてみる。タンッ、と乾いた音が響く。怜依の目の先には、中途半端な闇が広がった。灯が入ってない部屋は、とても暗い。
 誰か家人が現れたのならば、それはそれでまた対処の仕様を考えていたのだが、案の定、姿を見せる者は誰一人としていない。
 奇妙に静まり返った家屋、というものは、密やかな呼吸すら壁の中に引き込まれているようで、呼吸が止まりそうになる。家屋そのものが息をしている錯覚を覚え、苦しくなるのだ。
 怜依は、庭に面した廊下に足先を向けた。

 仕掛け張りらしい廊下の床が、彼が一歩踏み出すごとにキキュと鳴る。確かかつては賊避け、或いはその対象のために設けられたものだろうが、夜の晩をする者がいないこの屋敷にとっては、それはもはや飾りとしての役目しか果たさない。
 外廊下の角には例外なく外灯が設けられており、足元を小さく照らしている。光から光へ、闇の隙間を縫うように、青年は静かに歩んでいった。怜依の歩みを留める者は、依然としていなかった。
 広大な屋敷で、彼が出会ったのは未だ、猫一匹。それも、飼い猫なのか野良なのか、釈然とはしなかった。今もまた、小さな黒い影が廊下を横切るのが見えた。
 先程の猫かもしれない。まるで、怜依を誘導しているかのようで、
「まるで、猫のための屋敷だな」
 そう呟いてみて、怜依は意外に冗談ではないかもしれないその表現に、却って笑いを誘われた。
 そして巡り着く、屋敷の奥の奥。何本もの廊下と壁に複雑に囲まれた、外界からは完全にその存在を隠された、図らずとも光から逃れようとする密かな夢の在処。
「これは…」
 静寂を旨とするその小世界には似つかわしくない、鉄格子の敷かれた堅牢な部屋。

 ――座敷楼。

 縦横等間隔に仕切られた、鮮やかですらある深緑色に染められた鉄格子の隙間は狭く、女子供であっても肩より先を表に出すことは出来ないだろう。
 その中には、一人の少年が居た。鳥籠か虫籠の中の小さな動物たちのように。
 或いは…、外界の俗物から隔離されるように、守られるように。一面の畳敷きの床は、伊草の蒼い香りと共に、…鼻に慣れない、男の匂いがした。
 彼は、その上に正座していた。格子の傍らに置かれた灯火の明かりが揺らめき、少年の頬を朧げに照らし出す。
 襦袢だろう、白い薄掛けの上に薄水蒼の内衿を無造作に羽織った少年。歳の頃は十五、六といったところか。白皙の相貌と黒壇の髪が、月光よりも淡い灯で仄光る。
 怜依は、…思わず息を呑んだ。
 闇夜に浮かび上がる肢体は、異常なまでの白い装飾に埋もれていた。
 包帯である。首を巻くそれに始まり、恐らくは肩を覆い、胸を包み、腕を隠し、手足を拘束する白い帯。しかしその全てが純白で構成されておらず、所々に赤い斑点が散っているのが見て取れた。
 明らかに傷ついてる身体の痛々しさに、怜依は眉を寄せる。
 その装飾は、少年の顔面をも逃すことがなかったからだ。その左目はやはり包帯に覆われていて、視界の半分を確実に奪っている。表に見えた右目の凛とした輝きが、哀れにすら思えた。
 …まるで、死に装束を呈している。
 そう思うに至り、ようやく怜依は自身の視線と少年の瞳の焦点が重なっていることに気づいた。同時に、
「――今晩は」
「!」
 声変わりが進んでいない、中途半端に甲高く細い声。それが眼の前の少年の喉から発せられたものだと気づくまでに、一瞬の間が生じてしまう。金糸雀の心象がそこにはあり、籠の鳥、という印象が更に強まった。
 しかしそれより、まるで、怜依が訪れることを前から予見していたような、闖入者である自分に対する予想だにしていなかった夜の挨拶に、再び彼は不意を突かれた。
「どうして気づいた、というような顔をしているよ」
 くすくすと、妖艶とも取れるような淡い笑い声を漏らし、彼は首を捻り、背後を見遣った。釣られてそちらを見れば、部屋の奥、天井に近いところに、小さな天窓が薄く開いていた。
「その天窓からはね、月の光がこの屋敷で一番綺麗に差し込むんだ。部屋の入り口に向かって…、そう、丁度、貴方が立っている辺りにね」
 少年の声に導かれるようにして、今度は怜依は自身の足元を見た。改めて確かめてみて、少年と同じ様、自分の姿も部屋の中で淡く浮かび上がって相手に見えているのだと知る。
「…芹沢梓、だな?」
 そこでようやく、彼は声を出すことが出来た。自身の尋ね人に向けて、名を誰何する。
「そうだよ」
 再び少年は、うっすらと口元に笑みを呼ぶ。右目が細くなった。


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