MYTHICAL MAZE

 〜猫を隠した好奇心〜


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 そんな文字が、真っ青になった画面に白く浮かび上がった。
(――え?)
 俺は、ベッドサイドに置いたノートパソコンのキーボードを打つ指を止めた。
(ちょっと……、待ってくれよ)
「おいおいおい……」
 フリーズした。分かりやすく言えば、……凍りついた。
「嘘だろお……?」
 俺は思わず、叫びかけていたらしい、そう広くはない四人部屋、自分の声が鼓膜を刺激する。
 直ぐ隣の布団がもぞり、と動いて、ベッドの主が俺に顔を向けてきた。
「……にいちゃん?」
 頭まで引っ被っていた毛布の下から覗いたのは、まだ年端も行かない少年の頭。つい先程まで安穏と眠っていたパジャマ姿の彼は、まだ表情が冴えない。
「あ、悪い、起こしちゃったな」
 そう彼に呼びかけながら、内心冷や汗ダラダラの俺は、慌ててマウスカーソルを動かした。
「ああ、ちっくしょう、どうしてこんな……」
「どうしたの、陽介兄ちゃん」
 不安気な声を掛けられ、少しばかり、自分の声が上ずっていたのが分かった。
「ちょっとばかり、緊急事態!」
 フォルダを開き、アプリケーションを開きして、俺はどうにか不測の事態――いや、きっと、予想され得る事態なんだろうけれど――、を乗り越えようと必死になっていた。掌に汗を掻き、マウスカーソルが思うように動いてくれない。ええと、バックアップファイルの設定はしてあったっけ? 検索機能が上手く働いてくれればいいけれど…、ああ、なんて凡ミス! 2時間も文書を作り続けて途中で保存しないでいたなんて!
「ああ、もう!」
 こういうときに限って、ノートパソコンは持ち主にささやかな反乱を起こすんだ、まったく。
 俺、普段そんなに手荒に扱ってるか?
 奥歯を噛み締めて、ファイル群に目を凝らす俺を、少年……、カズくんが、物凄く心配そうな顔をして見つめているのが分かった。
 今の俺、多分ちょっと、怖い顔をしてるんだろうなあ、ごめん。
「洒落になんないよ……ッ」
 少し脳が混乱すると、それが快活する神経もちゃんと働いてくれないようで、指先が小さな震えを帯びたりする。おかげで開き直したファイルは目的のフォルダになかなか辿り着けずに、一々入り口からやり直したりして、焦りに相乗効果をもたらしてくれる。
「どうしたの?」
「今、超絶っ、忙しいところです!」
 後ろから掛けられた別人の声に、俺は反射的に応えていた。
「……って、あれ、二宮さん」
 気づいて振り向くと、そこには柔和な顔をした、白衣姿の青年がいた。
「そう、二宮さん。陽介くん、ちょっと落ち着きなさい」
 そう言って、彼はポン、と俺の方に手を置いた。俺の動きが一瞬で止まる。彼の声は不思議と、それだけで一種の鎮静剤のような効力がある。
「緊急事態って、どうかした?」
 どうやら、一人騒ぎの最初の辺りから聞こえていたらしい。
「あ、えっと……、パソコンがまたフリーズしちゃって。データが何処かに飛んじゃったみたいなんですよ」
 しどろもどろに俺は説明する。
 滅多にないことだが、パソコンの処理能力の問題で、データを保存するとき、稀に同時にフリーズが起こってしまうことがある。フリーズというのは、データの遣り取りに支障が生じて、パソコンの動きがストップしてしまうこと。道路の渋滞のようなものだ。
 それで……、その、データ保存とフリーズが同時に起こってしまった場合、当然パソコンは混乱する。今のパソコンにはフリーズに対する自己修復機能が備わっているから、一旦リセットをかけるか、しばらく待つかすれば、パソコンが壊れてしまうことは、まずない。
 だが、困ったことに、その際に本来保存されるべきデータを、混乱したコンピュータがまったく関係ないところに持っていってしまうことがあるのだ。現在の俺の緊急事態は、このフリーズとデータ破損?の二面攻撃によるものというわけだ。
 やっぱり、買い換えるべきなんだろうか。年代モノだからなあ、俺のパソコン。ワープロ代わりにしか使ってないし。ワープロ仕様なのにフリーズするくらいだし。
「ふうん……、ちょっと見せて」
 そう言うと、二宮さんは白衣の長身を屈めて、ノートパソコンの画面を見つめた。
「ちょっと、いい?」
「あ、はい」
 俺はちょっと横に退いて、彼に席を譲る。
「何のデータ?」
「いつもの、ワード文書です」
「ああ、小説のね」
 口元だけで、彼は笑った。いつもの、と俺が言ったのは、二宮さんも俺が小説を書いているのを知っているからで、……何故だか少しだけ、恥ずかしいような気がする。
「ワードだったら……、大抵、こっちに飛ぶんだよね。自動で回復してくれてるといいけど」
 カーソルを彼方此方に動かして、ハードディスクの中を探っていた二宮さんは、ものの数十秒で、
「ほら、見つけた」
 彼はその道のシステムエンジニアとしても通じるんじゃないかと思ってしまう。恥ずかしながら、彼の助けを借りるのは、これで三度目だ。
「後はきみの方で、保存し直しておいてね」
「すみません」
 俺が軽く頭を下げて感謝の意を表すと、二宮さんは軽く笑った。
「『猫を隠した好奇心』ね。一目でワード文書だって分かるねえ。タイトルはもう少し短くした方がいいよ、多分」
「本当、すみません」
 彼を席を変わって、ウィンドウを開き直し、文書を保存した。はぁ、と安堵の溜め息が漏れた。
「ご苦労様」
「そっちこそ。手際の良さに、尊敬しそうになりましたよ」
 俺が言うと、少し唇の端を持ち上げて彼は微笑む。
「生来の人の良さが、コンピュータにも通用した、ってところかな」
「その言い方、人が悪いと思いますよ、俺は」
「そう? まあ、好き嫌いはその人次第だからね」
「そうなんですか? そういうこと、普通は自分では言わないと思うけどな」
「じゃあ、今回は特別待遇だったんだね、きっと。きみのパソコンに気に入られたかな」
 彼には一度だって皮肉が通用した試しがない。
「リクさん…?」
 一人、置いてきぼりにされた少年の声が聞こえて、俺たちはベッドに向いた。案の定、カズくんが不安そうな表情のまま、こちらを伺っていた。
「あ、悪い。きみのこと忘れてた」
「もう、いいの? 陽介兄ちゃん」
「ああ、うん。どうにかね」
「すごく、ヘンな顔してたよ」
 クスリと笑って少年は言った。……やっぱり、そうだったか。
 少年の観察眼は、割と正確だ。
「そうそう。きみのおかげで忘れるところだったよ。良和くん、検温です」
 少しだけ意地悪な視線を俺に一瞬向けた後で、カズくんに向き直って、二宮さんはポケットから体温計を取り出して彼に手渡した。
 白衣の青年は、病院の看護士だ。フルネームは二宮陸哉(りくや)。医者というと、表情の硬いイメージがあるけれど、彼と出会ってそれは払拭された。天然じゃないかというくらいに、のほほんとした柔和な表情をいつも浮かべている。それが彼の表層を覆う仮面なのかどうかは知る必要のないことだと思うけれど、それでも俺は彼に対して一切の警戒心を持っていない。
 ここが小児科病棟だから、というのも、ある意味その根拠なのかもしれない。……そう、他でもない、このN市立中央病院の、当然ながら、俺やカズくんは、病院内の一般病棟の一室にいる。
 ベッドの上の少年の名前は、藤森良和。ヨシカズ、でカズくん。黒髪と猫の瞳みたいな目が結構可愛い奴だ。今年小学二年生だというから、俺と丁度十違いということになる。
 渡された水銀計を腋の下に挟み込み、その冷やっこさに眉を寄せる表情なんて、見ているだけで俺も弟が欲しいなあ、なんて思いたくなるくらいだ。
 けど、そういう一見無邪気で無垢な子ほど、成長すると減らず口をきくようになったり、逆に論舌家になったりするんだよな、と俺は思ったりする。

 彼らと知り合ったのは、この部屋だった。説明をすると長くなるんだけれど――、俺も、少し前まで入院患者だった。それも緊急入院だったから、生憎そのとき一般病棟の部屋に空きがないからと、一時の措置として小児科病棟に連れ込まれた。
 俺の気持ちを分かってくれとは言わない。年端も行かない少年少女の中、高校二年後半の青年が潜り込んでいる絵が様になるとはとても思えない。おまけに入院の原因が虫垂炎だったから――盲腸炎、と言った方が分かりやすいだろうか――、手術後の経過が順調だったことを示す某イヴェントの、なんと盛り上がったことか!
 俺はその場で病室の窓から飛び出して逃げたくなったくらいだった。恥ずかしさは通常の一般病棟でも似たようなものだと言われるだろうけれど、ほんの一音を聞くために自分のベッドの回りに群がるチビっ子の、なんと鬱陶しいことか。正直、悲しくすらあった。
 大体、一時の措置としての身の置き場だったはずの小児科病棟で、結局俺は退院までの全ての日数を過ごすことになった。保父さんじゃあるまいし、腹の傷が塞がった後も、少年たちの遊び相手をさせられ続けた。ふざけ半分とはいえ、殴られる蹴られるはしょっちゅうで――まさか殴り返すわけにはいかないから――、毎日が疲労満載の入院体験だった。
 まあ、良い人生経験になったのかもしれない。
 ――で、小児病棟の担当看護士であるのが、二宮青年だったわけだ。親しみを込めて、子供たちからは、リクさんって呼ばれている。歳は確か、二十七。カズくんと俺と二宮さんは、ちょうど十ずつ年が離れている。成程、小学生の低学年辺りは、丁度、二宮さんが若い親くらいの歳に該当するわけだから、取っ付きやすいことだろう。実際、子供たちの人気は端から見ていても明らかなものだった。
 俺からしたら歳の離れた兄ちゃん、という感じで、やはり馴染むのは直ぐだった。なにせこの顔にこの性格だ。初対面の相手を懐柔する術には長けているのだろう。
 ……なんてことを考えていた当初、
「なんだったら、お兄ちゃん、って呼んでもいいんだよ?」
 なんて、如何にもな子供扱いをされた。彼も普段接するより年齢の高い『子供』の相手をするのを楽しんでいたらしい。それこそ大きなお世話だ、と突っぱねようともしたけれど、……そうもいかなかったのは言うまでもない。
 むしろ、いいように扱われていたような記憶ばかりある。
 一度、こんなことがあった。ちょっとばかりマセた女の子は何処にでもいるもので、気丈にも『退院したら、私と付き合ってくださいっ』というような内容のことを言ってきたのだ。丁度そのとき、彼は俺の部屋の検診に来ていて、俺は二宮さんが何て応えるのか、不謹慎にも少し期待して見守っていた。
 俺が考えた通り、彼は最初、やんわりとこう言った。
「うーん……、気持ちは嬉しいんだけど。僕じゃなきゃ駄目なのかい?」
 女の子、頷く。何処まで本気なのか分からなかったが、真剣だろうことは確かだ。
「時期尚早、という言葉は当てはまらないだろうけれど…、困ったな」
 そう呟くと、彼はふっとこちらを向いた。まさか判断を俺に振るんじゃないかと嫌な予感がしたが、
「ごめん。僕は今、そういうこと、考えられないんだ。相手に関係なく、僕はみんな、そういうことは断ってるんだよ」
 愁傷な声を作って――と、俺には分かった――、二宮さんは膝を折って目の高さを合わせ、
「きみだから断る、ってわけじゃないんだよ。分かるね?」
 女の子は涙ぐんでいたが、ゆっくりと頷いた。理由はどうあれ、遠回しに断られたことを悟るのに、多い言葉は必要ない。
「勿論、その気持ちはありがたく受け取っておく。せめてものお返しだけれど……、お互いのことを忘れずにいよう、っていう約束なら、喜んで受けるよ」
 部屋から出ていくその背中に、青年は呼び掛けた。振り返らなかったが、女の子がコクンと頷くのを見て、観客であったはずの俺が脱力の溜め息を吐いている。
 ああして、女性は強くなっていくんだねえ、なんて、他人事のように二宮さんは僕に言った。
 もしかして、天然呆けなんじゃないかと、俺はふと思ってしまう。
「こういう仕事をしているとね……、分かるんだよ。なんというか、好き嫌いの程度というか、本気の度合いというか、惚れた腫れたと憧れの違いというか」
 俺の腕を握って、脈を取りながら彼は言った。変な言い方だと思う。好き嫌いに本気も何もないだろうに。
「ちょっと、可哀想でしたね」
 何となく、俺もそう零す。
 すると、しばしの沈黙の後、彼は思いも寄らないことを言い出した。
「いや……、フリーなのは確かなんだよ。なんだったら暫定措置として、きみを選んでおこうか? そうすれば当分、誰も寄ってこない」
「とっ、とんでもないです!」
 そりゃあそうだろうけれど、でも、冗談にも程がある。
「大体、そういうこと、考えられないんじゃなかったんですか?」
 じゃなくて、それは対象の方向性の問題だ。勿論、俺にはそういう趣味はない。
「ああ、それは、まあ、言葉の綾というか、小狡い言い訳というか……」
「二宮さんって、意地悪な人だったんだ……」
「やっと分かったかね、少年」
「子供扱いは止めてください」
「じゃあ、大人扱いをしなきゃ駄目なのかい? そうしたら僕は、多分きみに随分と冷たくするよ」
 微笑んで、そんなことを言う。俺には返す言葉がない。冗談だと分かっているから、余計に。
「……なんでそうなるんですか」
 人の扱い方をよく知っている人だ、と改めて思った。話す相手を絶句させるのは、そう簡単なことじゃない。この人、只者じゃない、と思ったのは、確かにその時だった。
 二宮さんは、そんなちょっと普通とは違う、皆の兄貴分だ。


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