桜闇


 綺麗な赤が、そこにあった。

 瑠璃色に輝く、透明な器のような丸い珠。
 ぼくはそれに見惚れそうになり、そちらに手を伸ばした。
 指がそれに触れた。
 触れてみたかったのだ。
 冷たいのか、温かいのか、暖かいのか、硬いのか、感じたくて。
 触れた瞬間、
 ぱちんとそれは弾けた。
 瑠璃色の珠の中からは、赤い、
 ――紅い、どろりとした液体が溢れ出た。
 鼻に付く錆びた鉄の匂い、
 そのときは、それが何なのか分からなかった。
 分かったのは、ずっと、ずっと後だった。それは、

 それは、ぼくの、――なのだと。

     ■     ■     ■

 何やら口元がむず痒く、それで眼が覚めた。
 口元に手を遣ってみて、己を眠りから覚ました刺客の正体に気づいた。
 指先に付いた、桜の花弁が一枚。
 樋野藤麻(ヒノ・トウマ)は、紛れもなく、自分が臥所にいることを自覚する。己の体温で温まった蒲団が、心地良さを助長して再び眠りへと誘おうとする気配を感じ、彼は暫く瞬きをするに努めた。
 見慣れた天井の木目、嗅ぎ慣れた木綿蒲団の匂い、指に触れる自身の身体の輪郭。意識が夢から解離して尚、直ぐ様活動を始める、とはいかないのは、いつものことだ。
 時は桜の散り始めた季節のこと、寝具に紛れ込んでいても可笑しくはないのかもしれないが、一体いつの間に褥へ滑り込んできたのかと、その何者かの微かな悪戯が滑稽で、
 ――桜に唇を奪われる、か。
 そう思うと、流石に少し可笑しくなった。
 蒲団の中でいつまでも愚図愚図するのは日常の行為に等しく、右手で触れてみた左手の指が思いの他冷たいことに、今更ながら驚いてみたりする。おかげで少し、意識が明瞭になったような気がする。
 初夏の兆しが見え始めた頃合とは言え、早朝は未だ肌寒い。藤麻が中々身体を動かす心づもりになれないのも、或いはそれが原因の一端となっているのだろうか。
 そう言えば、昨夜の夜桜は見事なものだったと、彼は半日前のことを思い出す。古風な家屋であり敷地も広い樋野家の庭には桜の木が植えられており、今の季節にはその円周の土色を鮮やかに染め替える。
 月夜の桜というものは、漆を溶かし込んだような艶やかな闇色に映え、頬をつと撫で掛けるような月光の反射を受けて、妖艶な薄紫色の衣を纏う。その花弁の一枚一枚が、だ。
 それは見る者に言葉を失わせ、その網膜へ絵画の如く留まらせる魅了として、しなやかに地面に舞っていく。風の助けを得ずとも、ひらりひらりと煌めきを生む様は、桜の木が意志を持ち、人の魂を奪おうと画策するかのようだ――。
 自分はそんな夢を見ていたのではないかと、危うく藤麻は錯覚させられそうになる。それも桜の持つ魅力の一つかもしれない。けれど、脳裏にはっきりと思い出せる美しさは、『美』という一言で表すにはおこがましいとすら思えてしまう。簡単に『美しい』と言葉で褒め讃えることが出来る美など、安いものでしかない。
 彼の指先に付いた一枚の花弁。それが枝から次々に散っていく様は、まさに儚さを称えた幽遠の美として、一つの命が散る様を形容し、人々の心に刻み込まれていく。
 それを見つめているうちに、思い出した。
「ああ、そうか……」
 あの時も、宙を舞う花弁に気を取られ、戯れに捕まえた一片を口にしてみたのだ。紛れもなく桜の香りだと分かる感触、そして、……実際には微細な感覚だけが名残惜しく喉を通っていった。
 ほう、と溜め息をつく。自分の中には、確かに桜があるのだ。
 成程、それこそが妖艶美。身体の中に溶け込んでしまった桜は、その肉体が見るべきだった夢を操るに至ったか。ある者にとっては他の多くと同じ緑色の樹木でしかなく、またある者にとっては他の花と変わらない自然色の重なりでしかないのであろう桜は、しかしこのときばかりは藤麻でなくとも少しばかり趣きも異なって見えようというものだ。
 ――自らの一部が桜であるのかもしれないと思えば、尚のこと。
 蒲団の中で、藤麻は寝返りを打ち、うつ伏せになった。
 手を伸ばせば届く位置に、数冊の書物が行灯の脇に積まれている。
 ――以前に、そんな物語を読んだだろうか。
 彼は思う。
 若くして、古書の卸問屋『白鳳堂』の主である樋野藤麻は、博識を自称するものでもないが、単純に読書をした量を比較させれば右に出るものは多くないだろう。それは自身の所蔵する古書を端から読んでいくのが趣味の一つであるという有閑さを十分に実証してい る。
 最早それは、ある種の病気のようなものだが――あるいは、『本の虫』に取り付かれているのかもしれない――、今更その習慣が変えられるとも思えない。
 ――いや、それは確か、
 桜桃だったと思う。小さな果実として舌を楽しませる、桜ん坊の実。似た植物ではあるが、樋野家の桜からは、果実を期待することは出来ない。花が散れば彼の季節は終演なり、という風情を感じるには確かに妙ではあるのだが。
 桜には、華やかな情景の裏に、不思議と妖(アヤカシ)を思わせる雰囲気が隠されているように思えてならない。藤麻の記憶違いではあれ、桜桃の種を飲み込んでしまった青年が、腹の中で開花してしまった桜に肉体を奪われ、更には桜へと変貌してしまうという怪談を読んだことがある者としては、秘められた妖力とでも呼ぶべき幻想を信じてみたくもなる。
 もっとも、己が桜に乗っ取られるのは御免だと、単純に都合の良い考え方をするのが、本の読者というものだ。
「花を愛で、自然の風雅を味わい…、桜は桜、僕は僕」
 枕に鼻先を埋めながら、藤麻はそう呟いた。
 また暫くそうしていたが、瞼が重くなってくるのを悟り、慌てて仰向く。夢の名残を楽しもうとする諸行は、まるで子供のようだ。成人の儀は数年前に行っているのに、思考の奔放さは直らない。
 はて、花弁は何処へ遣ってしまっただろうと彼は思い、指を眼の前に持ってくる。桃色の欠片は、そこにはなかった。蒲団の中に紛れてしまったか、それとも…、無意識のうちに、またも飲み込んでしまったのだろうか。ここまでくると、自分は桜の精に操られてい るのではないだろうかと笑いたくなってくる。
 そのせいではないだろうが、ふと喉の渇きを覚え、……寝起きに一杯、茶が飲みたくなった。
「――史城(シキ)、居ないかい」
 枕元に置いておいた懐中時計を手に取り、藤麻は起き上がった。昨夜はあまり寝ていないのだが、気分は悪くない。後で庭の木に礼を言わなければな、と思いながら、この時間になれば普段ならば隣室で覚醒しているはずの青年の名を呼ぶ。
 寝間着の上から藍色の内襟、更に上掛けを羽織り、藤麻は立ち上がった。
 温もりが色濃く残る蒲団から一歩進むと、畳の床は足の裏にひやりと冷たい。
 思わず肩を竦めて、小さく息を吸った。
 隣室の襖に指を掛ける。彼の従者は既に動き始めているのだろうか。
 すう、と襖の開く音がして、つい彼は敷居に視線が落ちてしまう。潤滑剤の代わりに蝋が塗られた木の枠は滑らかで、しかし藤麻の足がそれを跨ぐ際に触れることはない。それも自然なことだった。空間を囲む敷居を踏み遣ることは、一つの秩序を乱すに等しい。
「史城」
 再び名を呼ぶも、その主の気配は部屋の中にはなかった。元より物の少ない室内は閑散としていて、尋ね人は何処かに身を移してしまっているのが明らかだった。
 かたん、と廊下から物音がしたのを耳にして、廊下に面した障子を開けると、うっすらと薄青空が眼に飛び込んだ。昨夜は良い月夜で、甘やかな光を遮断する邪魔者は夜空に居なかった。それは今朝に引き継がれ、好天が空を支配しようとしている。
 廊下を、居間に向かって進んだ。書斎の前を通る際、濡れ縁の一部に出来た桃色の絨毯を踏まないよう、藤麻は壁に身を寄せて歩んだ。丁度枝の先端が軒先に触れるか触れないか、という近さに、一本の桜が立っている。樋野家の表庭にある桜は、その一本きりで、 だからこそその位置にだけ出来る桜の舞の余韻は他に代え難いものがある。
 満開の頃合は過ぎ、桜の花弁は一杯に開いた姿のまま、後は身を地に落とす術を儚む様が見え隠れする。穏やかな風のせいで、掃いても掃いても、数刻後には斑色になってしまうのが分かっているから、桜が全て舞い終わるまでは、その風情を楽しんでおこうという 彼の意向だ。
 何を始めるでもなく、ひんやりとした庭の空気を感じるままに佇んでいた藤麻に、
「お早うございます」
 そう、声を掛けるものがいた。
 顔を向けると、浅葱色に染められた着物を羽織った少年の姿が眼に入る。
「ああ、お早う」
 少年――、桐都(キリト)に、藤麻は微笑んで声を返す。
 藤麻とはそう歳も離れていないように見える外見さながら、屋敷に住み込みで、色々の雑事を任せられている。もっとも――、樋野藤麻という青年の外見自体、実際の年齢より若く見られる傾向があり、それが小さな悩みとならぬでもないのだが。
 両親を早くに亡くしている藤麻は、男が一人で住むには広すぎる屋敷に依然留まっているが、それは祖父の代から引き継いだ『白鳳堂』の蔵書を管理する役目でもあったし、彼なりに手放せない様々なものがあることに所以する。
 桐都は、ある意味ではそのための小間使いとも呼べた。
 こうして隣に立たれてみると、背格好にも似通ったところがあるのかもしれない。髪や瞳の黒さなどにこそ微妙な異なりがあるとはいえ、一つ屋根の下に暮らそうとすると、自然と似た者が集まるのだろうか。
「桐都、史城を見なかったかない」
 先程の物音は、この少年が発したものだと判断し、空席の隣室人について尋ねる。
「……いえ、今朝はまだお見掛けしていません。お部屋には――」
「先刻見たばかり。居なかった」
 捜しましょうか、と申し出る少年に、藤麻は首を振り、
「いや、急ぎの用事でもないから。そのうち姿を見せるだろうよ」
 そうしている間にも、はらはらと足元に舞ってくる、春の欠片を見て、
「もう、かなり散ってしまいましたね。お花見も、そろそろお仕舞いか」
 土の色がすっかり隠れた地面を眺めながら、名残惜しそうに、桐都は言う。
「満開だけが桜じゃないさ。……今は五分咲きだ」
 故意に逆算して藤麻が言うと、少年は頷く。
「そうですね、そうも見えます」
「ただ、後は減るばかりだけれど。……桐都も桜は好きかい」
「はい。花では一番」
「そう……、僕もだ」
 意外な共通の趣味を見つけ、顔を見合わせ、くすりと笑った。
「朝御飯の支度が出来ていますが、どうなさいますか」
 思い出したように桐都は言い、青年は頷いた。
「頼むよ。……ああ、でもその前に」
「何でしょう」
 史城に頼みたいと思っていたことを、敢えてその場で口にする。
「茶を一杯、お願い出来るかな、眼覚ましに。寝起きにはこれが一番良い」
 急ぎの用事ではない、などと言ってしまった手前、背徳心がないでもない。
 自身が寝起きの状態であることを臆面もなく口にする主人に、少年は軽く笑みを見せた。
「はい」
 噛み殺すように小さく欠伸をする藤麻に、
「昨夜もまた、読本をなさっていたのですか」
「ああ、まあ、そんなところだ」
 主人の微々と曖昧な応えに首を傾げ、ふと、といったように桐都は切り出した。
「何か、入り用になりましたら、いつでも申しつけてくださいね。夜中でも、叩き起こしてくださって構いませんから」
 桐都はそう進言した。心遣いだけ貰っておくよ、と藤麻は返す。だが少年は不満そうな顔つきをする。
「そうもいきません」
「どうしてだい、突然に」
「――昨夜遅くに、どなたかがいらっしゃいませんでしたか」
 声こそ出しはしなかったものの、若い主は眼を微かに細め、小さく嘆息した。
「起こすつもりはなかったんだが」
 済まなそうな声音で言う藤麻に向け、少年は首を振る。
「ちゃんと、部屋で眠っていました。気付いたのは今朝です。居間に、客人用の湯飲みが」
 ちゃんと、の部分を強調して応えた。
「ああ……、お前が気に病むようなことではないよ。こちらはあくまで、僕の趣味の延長線上の問題なのだから。昼間の仕事だけでも御苦労なのに、夜中まで僕に付き合わせる義理はないだろう」
「藤麻様はそう思われるでしょうが、ぼくは屋敷に仕える身ですから。それも、お勤めです。気兼ねは不要、いつでも使ってくださればいい……、それを言いたかっただけです」
 見掛けに寄らず、真っ直ぐな性格なのか、はたまた意地っ張りなのか……、兎も角、信条の分別がはっきりとしているのだ、この少年は。相手によっては煩わしく思われかねないことだが、それは真っ直ぐな忠誠心の現れだと取ってもいいだろう。
「その気持ちは有り難く受け取る。済まないね」
「どんでもないです。けれど……」
 一瞬、桐都は視線を伏せた。
「けれど?」
 その刹那、少年の瞳に逡巡の色が見えた。が、直ぐに元の表情に戻り、
「眠くなったときには、素直にお休みになられた方が良いかと思います。春とはいえ、火鉢だけの暖では風邪を引きますよ」
 書斎兼書庫にて、古書を読み漁るのは藤麻の日課のようなものだ。以前にも、夜更けに書斎でうたた寝を始めてしまったところを偶然見つけられ、自室に追い遣られた覚えがある。
 それは、……昨夜もそうだった。気恥ずかしくも重なった偶然に、
「ああ、また言われてしまったね」
 苦笑いを交えつつ、藤麻は応えた。
「また?」
「昨夜も危うく、本を開いたまま眠りそうになってしまったところだよ。同じような忠告をされたばかりなんだ、実は。分かってはいるつもりなんだが」
「そう、なのですか。……気をつけてくださいね」
 少年の忠告に、青年はうっそりと笑うのみだった。
「済みません、引き留めてしまって。お茶の用意をしますね」
 その場に似合わず曇りかけた空気を払拭するように明るく告げると、桐都は炊事場の方に足先を向けた。彼の背中を見送った藤麻は、己の背後から廊下板の軋む音がするのを耳にする。
 屋敷の輪郭に沿う廊下の角を曲がったところに、
「史城?」
 縁側から地面に足を下ろし、青年が煙草を吸っている姿が眼に留まった。まるで、藤麻がその名を呼んだからその場に現れた、とでもいうように。
 白い襯衣に黒の上着姿は、昨夜と変わらない。近寄ってみれば、その紫煙は煙草のではなく、香草の匂いがする。彼の手製の、紙巻だ。
「ここにいたのかい」
「藤麻」
「お早う。……と言うには少し時間が遅いかな」
 腰を据える板の裏側で煙草の火を揉み消して、
「……ああ、お互い様だ。仕方ないだろう、夜更かしが障ったな」
 史城は、自嘲とも忠告とも取れる言葉と笑みを見せた。
 それを聞いて、ふふ、と藤麻は笑みを零した。
「やっぱり、二人して同じようなことを言うね。桐都にも嗜められたよ」
「其処で、話していたな」
「盗み聞きは良くないよ」
 藤麻が言うと、肩を竦めて、
「聞こえたんだ。それとも、聞かれて困るようなことを、話していたのか?」
 上衣の隠しに火の消えた煙草を仕舞いながら、悪びれる必要もない、といった調子で応えた。
 彼の隣に屈み込み、掌でぱたぱたと眼先を扇ぎながら、
「さあ、どうかな。聞いていたんだろう?」
「どうかな……、――少しは、眠れたか」
 応えをはぐらかし、史城は話題を変える。
「僕はね。お前はどうなんだい」
「一日や二日、休まずとも、貴方に迷惑は掛けずにいられるつもりだが」
 史城のそんな言葉を聞き、藤麻は微笑みつつも眉を寄せた。
「そういうことを言うものじゃないよ」
 両の肘を手で支え、史城は溜め息をついた。
「大体、俺に寝床は必要ないと言っているのに」
 半ば決めつけるように、自室の隣に史城のための寝床を毎晩用意しているのは、桐都……、そして、彼にそうするように言いつけた藤麻だ。
「だったら、片付けてしまえばいいのに。使ってくれたんだろう」
「用意されているのを見たら、……無下には出来ない性分なんだ」
「朝になったら律儀に押入れに仕舞うくせに」
 素直でないね、と藤麻は笑みを浮かべる。
「……わざと、桐都に姿を見せなかったね?」
 不意に、藤麻は指摘してみる。桐都が姿を見せたのは、今彼らがいる縁側の方向だった。先程の情景を思い出すまでもない。
 直ぐの反応は、なかった。表情を伺うも、その顔には感情の色は薄い。端正な横顔は仏頂面のまま、暫く、正面に視線を固定したまま、息遣いだけが聞こえた。
 そして、ゆっくりと口を開く。
「俺が、誰かから逃れようとしたみたいな言い方だな」
「違うのかい」
 半ば冗談粧して藤麻が言うと、
「桐都と俺とでは、貴方に仕える理由が違うからな」
 謎掛けのような答え方をされ、藤麻は即座には声を出せなかった。
「うん……、いいよ、それ以上は訊かないでおくよ」
 藤麻も、史城の立場を自分なりに分かっているつもりだ。
 藤麻は、史城の胸元から煙草を取り出し、眼の前に掲げてみせた。白檀だね、と香りの元を言い当てると、
「こういう心配は無用だと言っただろう? 煙草の一本や二本、眼の前で吸われたって咎めやしないよ、子供じゃないんだから」
 言葉尻を捕まえて、そう告げる。
「心配をしたわけではないさ。ただ……」
「覚えていないか? 昨夜も俺の前でしていただろう。本の上の埃くらいで咳き込む様を見せられたら、眼の前で煙を吐く気にはなれないさ」
 普段から決して喉の調子の良くない藤麻だが、古書に生えた黴や埃を吸って肺病にでもなったら厄介だと、小言のように時折史城は忠告をしている。
「心配、してくれているんじゃないか」
 藤麻の直截な返事に、史城は諦めたように一度言葉を失うと、改めて息を吸い、
「……そうさ。しているんだ、勝手にな」
「ごめん」
「貴方が謝る必要はない、と言ったが」
「ああ……、そうだね」
 藤麻の指先から煙草を摘み取り、陽に透かしながら、
「俺とて、毎日こうして隠れて吸っているわけでもないさ。人によくある衝動と同じだ。これが活力となるわけでもないが、時折、無性に欲している。貴方も、気を落ち着けようとするときに、香を焚くことがあるだろう? それと同じ……」
「それは……、これが関係しているのかい」
 藤麻はそう呟いて、右腕の袖を少し託し上げた。その手の甲から手首に掛けて、白い包帯が巻かれている。史城は眼を細め、眉を寄せた。彼の右手にもまた、藤麻と同じく包帯が巻かれている。その奇妙な符号は、昨夜から今朝の二人の関係を暗に示している。
「それは……、知っていなければならなかった事実を一つだけ、俺が知らなかったことによる失態だ……。もう、過ぎたことだと、貴方も分かっている筈だ」
「分かってる、その通りだ」
 ただね、と藤麻は言葉を濁すような面持ちで言った。
「ただ今朝は少し、不安に思っただけのこと。いつもなら、何も言わずとも隣にいてくれるお前だから、尚のこと、ね」
「俺は、変わらないさ。ちゃんと、ここに居る。だが……、たまには、俺にも貴方のことを気遣わせてくれ。始終、腰にしがみ付いていてもいいというものでもないだろう。貴方はもっと、俺に対してぞんざいになってくれていいんだ」
 穏やかな口調で史城は言い、藤麻の肩にそっと手を置いた。それに藤麻は右手で触れる。
「そうもいかないんだよ。お前と、対等で居たい……、そう思ってはいけないのかな」
「……そう言うと思っていた。貴方は、そういう人だ」
 貴方は優しすぎるんだ――、そう彼は続けたかったに違いなかった。声に出さずに告げた言葉を、史城は改めて聞かせようとはしなかった。それが彼の内側に幼さを見出そうとしている錯覚なのだとしても。
「分かったように言うね」
「違うのか?」
「いや、違わない」
 それも、お互いの性分だ。その程度の思いの擦れ違いこそ、二人が常に接していることの証明なのだろうと、どちらともなく思っている。彼らの付き合いは、決して短いものではない。
 そして、どちらもそれを口にはしなかった。言葉にしなければ伝わらない意志もあれば、言葉を必要としない意識もある。その程度のことを思い遣れずして、相方が勤まる筈はないと、そう思ったのは随分以前のことではなかっただろうか。
「藤麻様」
 今の方から自分を呼ぶ桐都の声がして、
「今、行くよ」
 良く通る声で彼は返事をし、次いで、史城の耳元に唇を近づけ、囁いた。
「我儘だと言われるかもしれないけれどね……、本心を言うと、今朝は史城の茶が飲みたくて眼が覚めた。お前が返事をしなかったから、桐都に頼んだのだけれど……、今、茶を口にしたら考えてしまうだろうね。これがお前の茶だったら、と」
「……それは、やめるように努力してもらいたい。随分な謙遜だ。俺は特別なことはしていないだろう」
 それが冗句なのだと分かっていても、史城は言わずにはいられなかった。
「そうでもないよ。史城の茶であるか、そうでないかを、舌が覚えていて、判断してしまっているんだ。……勝手な嗜好だと思われても、こればかりは譲れないね」
 唇に人差し指を添えて、悪戯を秘すような顔つきで、言った。
「桐都には、秘密だよ。あの子の茶も僕は好きだから。あの子に嫌われたくない」


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