きみが先に眠るまで


 T 誰かが其処にはいない

 まあ、何ということもないある日の話だと思って、しばらくお付き合い願いたい。

 トオルの通う大学の近所に、ファミレスがある。ファミリーレストラン、なんて通称はもう誰も使わなくなってしまったけれど、二十四時間営業というコンビニエンスな性質と引き換えの中途半端な気軽さが、ここにもあるのだ。
 その日の講義にも全部出終えて、けれど家に直行というにはまだ早い。別に大した予定もなかったから、一緒にいた友人とそこで休んでいくかという話になり、中に入った。お茶をする目的があるならば、大学にも喫茶室がないわけでもないのだが、『ファミレスでお茶する』という大義名分が発生してしまった以上は、逆らうことは出来ない。そのメンバーに女の子がいなくてもだ。
 大体、その日の講義は端から休講で、意味もなく時間を潰してしまったトオルたちは、正当な理由を欲しがっていた。暇潰しの理由を。……本末転倒である。
「だってさあ、全講義、その日になっていきなり休講、なんて詐欺じゃなきゃ何だっていうワケ?」
 如何にも砕けた口調で友人は――アキラという名前だが、それはあまり重要な意味を持たないので覚えなくても結構――そう言ったが、彼は明らかにその場のノリでそうしているのだった。つまりそういう風に喋るのが癖なのだ。少なくとも、試験の成績はトオルより良い。
 十二支に猫がないのを心底悔しがる友人は、猫っ毛を微風で揺らしながら、革靴を音も立てずに歩く。肩の位置が上下しないのは、歩くのが巧いということだ。姿勢が良い。
「こっちは授業料払って、大学に毎日来てやってんだぜ? それを勝手に休講にされて、金は返ってこない。休講になって喜んでる奴らの気が知れないね。何で皆、休講になると喜ぶワケ?」
 年間の授業料を一時間辺りの金額に計算しなおすと、滅法高いことに驚くはずだ。
「親の金だからじゃないか?」
 トオルは深く考えずに応える。
「小学校から大学まで、流れるみたいに進学してくると、学校に行かせてもらっている、っていう意識がなくなるんだよ、きっと」
「それは根本的問題から逃げてんぜ。現金泥棒の諸行に喜ぶのは大学生くらいもモンだからな。モラトリアムやフォークロージャーな地位も崩れるってもんだ」
 崩れた口調で、専門用語を口にする。聞いている身としては、何が崩れるのか全く理解出来ないが、一々質問するのは面倒なのでしなかった。特に重要な話とも思えない。
「けど、大抵の奴はそんなこと考えない。俺たちが授業料を払っているわけじゃないだろう」
「おお、そりゃそうだ」
 ぽん、と掌に拳を軽く打ち付けて、
「そういう負担に付いて、入学するまで学校側はフォローの説明をしねーもんな」
 フォークロージャーは何処へやら。
「だから、俺たちって親不孝者なんだよな、まったく」
「そう思うんだったら、最初っから大学生になんてならなきゃ良かったのに」
 後になってみれば慈悲のないとしか思えない意見を、トオルは口にしていた。アキラはその残酷さに気づいていないのか、それとも無視しているのか、指を一本立てて、
「そう、それ。初めっからそれに気づいてりゃあ、こんなことで悩む必要なんてねーのよ。過去の記憶を持つことは、人間の一番の欠点だわな」
 実は、多くの大学生は大学生になろうとして大学生になるのではない。論理的に正しいのかははなはだ疑問だが、焦点は試験に合格することに向けられてしまうから、一概に否定出来ないような気がする。
 アキラの言葉の後半は、もっともな意見だ。かと思えば、 「宝くじの一等にでも当たってれば、こんな悩みとはおさらばなんだよな」
 脈絡もない夢を言う。確か、ドリームジャンボの一等に当たるのと、雷の直撃を受けるのとでは、後者の方が統計的に確率が高いのではなかっただろうか。こちらは全く夢がない話だ。
 ともあれ、二人にとって、そんな話題は些細なものに過ぎなかった。講義が全てきゅうこうだったということは、その日が偶然祝日だったという程度の性質しか持たない。少なくとも、大学の掲示板を見ない限りは休講に気づけないシステムは、大仰に理不尽だ。
 意外と、詐欺だったりするのかもしれない。万馬券だ。
 ファミレスの入り口に、空缶がお置かれていた。それは縦に三つ重ねられていて、アキラは達磨落しでもするみたいに一番下の缶だけを器用に足で蹴り飛ばした。カランカラン、と間抜けな音を立てて転がっていった缶は車道に転がり出て、折良く通り掛かったトラックに轢かれて平らになった。
「うわあ、残忍な手口」
 おどけてみせるアキラは、作為犯であることから逃避している。
「ロードローラーでぺちゃんこになった人間って、一度見てみたいよな」
 そういうことを笑って言わないで欲しい。サイコでスプラッタな映画も真っ青だ。
 丁度、客足が鈍る時間帯で、店内は静かなものだった。休憩所としてしばらく使わせてもらう分には、その方がいい。BGMにテクノとかトランス・ミュージックが流れているのはどうだろう、と思ったが、自分も知っている曲だったので悪い気持ちではなかった。
 講義のない講義室でミステリを読み耽るのと、客のいないファミレスでおかわり自由のコーヒーを飲み続けるのでは、どちらが本人のためになるのだろうか。トオルが思うと、
「どっちが他人のためになるかを考えた方が合理的じゃねえ?」
 口にしてもいないうちから、アキラは応えた。合理的な意見だ。  茶色のソファの席に着くと、友人は出来もしないのに指を弾いて店員を呼んだ。するすると指が擦れる音だけが小さく聞こえたので、代わりに指を鳴らしてやる。
「サンキュ」
 アキラが笑って言って、その時になってようやく気恥しさが込み上げてきた。
 いらっしゃいませ、と言ってウェイターがメニューを二人に渡し、トオルはコーヒーをオーダーした。一番安かったからだ。窓際の席で、外を見ると潰れた空缶が何度も車に轢かれ、丸く延ばされていた。視線を戻すと、アキラもオーダーを終えていて、ウェイターは奥に下がっていった。
「コーヒーって、旨い?」
 アキラはテーブルに頬杖を付いてトオルに訊く。
「さあ、どうかな」
 トオルは曖昧に答えた。果たしてコーヒーは旨いのだろうか。考えたことがなかった。リンゴを食べて旨いと感じるのは、『旨い』の種類が違うだろうし、どう違うのかと訊かれたら、コーヒーとリンゴの違いを論理的に説明するくらいに難しいのではないだろうか。
 喉が乾いたときに飲む水よりは旨くないが、アイスコーヒーだったら旨いと思う。つまりアイスとホットの違いなのかと錯覚しそうになったが、客観的な食べ物の旨さというのは、テレビでその筋の名店を紹介されるような幻想でしかない。
「暇潰しになるくらいには旨いのかな」
「はあん。成程」
 アキラはコクコクと頷く。何がどう成程なのかは分からないが、それきり二人は黙り込んだ。心臓の鼓動に合わせて、トランスのビートが肌を震わせる。
「味の無くなったガムよりは、旨いかな」
 しばらくして、思い出したようにトオルは言って、
「味の付いたゴムみてーなモンか」
 真面目な顔でアキラは言う。
「ゴムは不味いだろう、元々」
「食ったことねーから分かんねーし」
「けど……、ガムの始まりはゴムの木の樹液だった、って話を聞いたような」
「マジ?」
「あ、思い出した。俺、ガキの頃に輪ゴム噛んだことあったぜ」
 脈絡のない会話。
「どうだった?」
「はっきり言って不味かった」
「だろうね」
「真顔で言うな」
「ごめん」
 反射的にトオルは頭を下げてしまう。
「まあいいけど。ってことはさあ……――」
 コーヒーってゴムの味がするのか、と訊きかけたとき、
「お待たせしました」
 会話は店員の声で打ち切られた。お喋りなんて、そんなものだ。  と、横を見れば、ウェイターではなく、白衣を着た男が立っていた。白衣を着ている男だから、ウェイターではない、と思ったのだが、多分それは間違ってはいないだろう。彼は両手に長細いガラス製の試験管を掲げ持ち、
「さあ、どちらか選んでください」
 とベンチに座っていた二人の目の前に差し出してくる。右手に赤い色の液体、左手に青色の液体。咄嗟に、何のことか分からない。
 トオルはコーヒーを頼んだのだ。コーヒーは何処へ? いやもしかして、先程のウェイターと意思の疎通が完全に成されていなかったとか? というか、何故ファミレスに白衣の男がいるのだ。いや、いてはいけないとトオルが決めつけることは出来ないが、どうして自分が試験管を選ばされているのか。どうしてアキラは平然と、頬杖を付いたまま指先でくるくると輪ゴムを回しているのか。
「さあ、どうぞ」
 ずい、と目と鼻の先に突き付けられる。ターゲットはトオルの方らしい。選べ、と言われて一方を選んだなら、自分は何をさせられるのか。
 ……飲まされるの違いない。
「……飲むんですか」
 怖々と訊いてみると、
「飲むんです」
 きっぱりと言い返された。
「コーヒー、頼んだだろ?」
 アキラは親指と人差指だけで器用に輪ゴムを飛ばし、やる気のなさそうな声で言う。
 これの何処がコーヒーだ。いや、案外味はコーヒーなのかも。コーヒーなのか?
 パチン、と飛んだ輪ゴムは、白衣のポケットの中にゴールした。
「これ、コーヒー……ですか」
「コーヒーです」
 自分は、騙されていないだろうか。児戯にも等しい考察は一瞬で、渋々、飲みやすそうな赤色を選んだ。トオルのオーダーが無視されたトマトジュースなのかもしれない。彼は真っ青な色の液体を飲んだことはなかったから、理性的な判断だと言えた。
「じゃあ、……こっち」
 赤い色の試験管を受け取り、まじまじと見つめる。ごくん、と唾を飲み込んだ。
 赤い。『赤』の定義はこれだ、というくらいに赤い。
「赤いんですけど、コレ」
「見た通りです。こちらが青ですから」
 男は左手を掲げる。青い。
「青いですね、そりゃあ」
「青いです」
 押し問答にすらならない。かといって、飲まないことには話が進まないに違いない。
 思い切って、一息に煽り、喉に流し込んだ。赤色の液体は、グレープフルーツの味がした。
「お前、よくそんなの飲めるなぁ」
 隣の友人は嫌そうな顔をしながら、ストローを使って味噌汁を飲んでいた。
 いつの間に頼んでいたのだろう……、というか、どうして味噌汁なんて頼んでいるのだろう。ストローに関しては敢えて突っ込まなかった。
 それ以前に、これの何処がコーヒーだ、とトオルは吐きそうになりながら輪ゴムを噛んでいた。


「……んぁ?」
 変な声が出た。
 多分、眩しくて目が覚めたのだと思う。寝返りを打つと目の前の明るさは元通りになって、彼が寝ていた丁度枕の部分に、薄く光の帯が差し込んでいた。
 首を傾けると、窓際のカーテンが薄く開けられていて、そこから枕に向けて光が伸びている。日光が飛び込む時間帯に合わせて仕掛けられた目覚ましだ。サイドボードの上にある本物の目覚まし時計を見ると、既に時刻は十時を回っていた。
 口の中が苦いような気がしたが、きっと気のせいだろう。
 奇妙な夢を見た。ファミレスでコーヒーを頼んだら輪ゴムを食べさせられたような夢。
 他人の夢が映像としてみられるプロジェクタが開発されたら、世紀の大発明だと言われるだろう。プライバシーの侵害も甚だしいが、眠ってる当事者からしてみれば、改めて映像化されたそれを見ない限りは大した問題ではないだろう。
 所詮は夢だ。……そう思えるのは、トオル本人だけだが。
 その瞬間だけ、彼は幸せな奴だ。
 上半身の伸びと共に大きく欠伸をして、トオルはベッドから降りた。目覚まし時計は八時半にセットされていたが、無意識に止めて、そのまま二度寝してしまったらしい。その日は午後からの講義で、午前中は家でのんびりしていようと思っていたから、焦ることはない。
 二階の自室から廊下に出ると、物音一つ聞こえてこなかった。家人は既に外出してしまったようだ。十時ならば無理もない。
 寝癖をなでつけながらダイニングに降りると、何か、空気の中に、いつもと違う何かが混ざっているような妙な気分になった。
 気のせいだと言われれば、その場で納得してしまうような、何ということもない思いつきだったのだが、あまり感じたことのない一瞬の違和感に、彼は首を傾げる。
 テーブルの上に大皿が一枚、その横にカップが一つ。皿にはフレンチトーストとベーコンポテトのサラダが乗っていた。ラップが綺麗に掛けられていて、皿の下にはメモが一枚挟まれている。見ると『レンジに三十秒』と丸っこい字で書き置きがしてあった。温めて食べろ、という言付けだ。
 トオルには同居人がいる。彼の仕業――、いや、心遣いだ。トオルの分まで朝ごはんを用意していってくれたのだろう。大学生のトオルとは生活サイクルが違うから、朝にはあまり顔を合わせない。けれど、律儀にこうして面倒な支度をしていってくれることは嬉しいと思わなければいけないだろう。
 高校生の朝というのは、割と慌ただしいものだと相場が決まっているのに。
「愛い奴」
 冗談のつもりで口にしてみたら、本当に可笑しかった。日常茶飯事なことほど、実は改めて認識してみると面白いことばかりなのかもしれない。
 機嫌が悪ければ、寝ているトオルを蹴り飛ばしてでも起こし、一緒に朝御飯を摂らせようとする彼だ。一向に生活習慣を改善させないトオルに諦めを覚えたのか、目覚ましの仕掛けは、その同居人の新しい手口に相違ない。
「いつも済まないねえ……、だ」
 殆ど毎日のことなので、今更礼を言うようなことではないし、そんな間柄でもないが、彼はひらひらとメモを振りながら、皿をレンジにセットし、指示された通り三十秒、温める。文明の利器、万々歳だ。
 カップは、中身が空だった。その代わり、食器棚の隣のコーヒーメーカーに一人分のコーヒーが用意されていた。有り難く頂く事にする。準備が宜しくて涙が出る。
 コポポ、とカップに注ぐ音を耳にしながら、トオルはコーヒーを飲んだことがないと言う友人のことを思い出していた。洋食より和食が好きな奴だったと、あまりどうでもいいようなことを思い出す。
 チン、とタイマーが切れ、加熱が完了した音がした。電磁波を遮断するというフィルムが貼られた扉を開け、ラップの内側が水蒸気で曇った皿を取り出す。
 レンジで温めることを『チンする』という表現が当たり前のものになったけれど、ならばこの音は擬音語なのか、少しだけ考え込みそうになった。
 テーブルの上にある小さなバスケットから、フォークを取り出して、
「いただきます」
 静かにブランチを食べた。コーヒーにミルクを足したカフェオレで、トーストを流し込む。フレンチトーストは甘めに作られていて、寝起きには有り難かった。彼の作るトーストは、正直に言って、他の誰が作るそれよりも旨いとトオルは思っている。
 出来立てを口にしていたらカリカリの歯応えが心地良かったに違いないベーコンとポテトのサラダには、さり気なく黒胡椒が効いていて、適度な辛味が旨い。付け合せの人参の甘さが、トオルは子供の頃から好きなのだった。自分で作れないのが悔しいほど。
 トオルの座った向かいの席、椅子の背もたれに、ブルーのエプロンが掛かっていた。特技が料理だと公言出来る高校男児とは如何なるものかと思われかねないが、立派なものだとトオルは思う。なまじ、自分が無作法者なだけに、耳が痛い。
 朝の時間帯を通り過ぎた住宅街は却って静かで、フォークが更に触れる固い音が、耳に冷たく響く。そういうとき、トオルは一人で食事をすることの寂しさとはこういうものなのかな、と不意に思ったりするのだが、多くの人はそんなことに頓着しないのだろう。
 彼の両親は、共働きだ。しかも、昨年からそろって海外勤務続きなのである。必然的に家事は息子たちに任せられることとなったのだが、トオルはそういったことに対して無頓着過ぎた。
 実質的に、同居人である彼の弟が、その殆どを担うようになって久しい。炊事、洗濯、掃除と、いつの間にか家政夫顔負けの家庭科模範生になってしまった。家の中のことに関しては、トオルは彼に頭が上がらない。
 全く、良く出来た弟である。年長者としての顔がない。
 勿論、何かがあったときに仮の家長として責任を負うことになるのはトオルなのだ。……これはある種の誓約で、盟約なのだろう、きっと。むしろ義務だとトオルは肝に命じている。
 ともあれ、
 一人暮らしをする多くの大学生に比べ、トオルは明らかに恵まれた生活を送っている。
『いいんだよ、オレが好きでやってるんだからさ』
 彼はそう言う。相手の好きでしていることを咎めるつもりは毛頭ないとはいえ、申し訳なさが先に立つときもある。何より、弟に養われているようで、笑うに笑えない。
 表面上、当たり前のものになってしまっているから、尚更だ。
 食器をシンクに片付け、コーヒーをもう一杯煎れ直すことにする。コンロにケトルを掛けたとき、携帯電話のメール着信音が聞こえた。二階の自室からだ。コンロの火を弱火にして、トオルは部屋に戻った。
『タイトル:トオル兄へ』
 差出人のアドレスを確認するまでもなく、弟からだと分かった。早速文面を見る。
『もう起きた? 寝てたらゴメン。朝ゴハンは用意しといたから、勝手に食べて。昼ゴハンにしちゃってもいいぜ?(笑)今日、トオル、帰り遅くなるって言ってたけど、夕ゴハンいるのか聞いてなかったよな。今、授業中なので、後でメールでも下さい。じゃね』
 メール口調とはいえ、妙に調子が軽いな、と思った。インターネットを良く利用している彼だから、こうした文章を書くのには慣れているだろう。
 実感として思うことだが、ケイタイが普及した今、小テストでカンニング――答えの教えあい――のし放題だよな、とトオルは苦笑する。
『今、ブランチを食ったとこ。なんかキッチンが埃っぽいな。何か不手際か?(笑)ガッコは昼から出勤。夕飯はいらない。友達の所で食ってくる』
 手短に用件だけを文面に、返信する。
「……と、そうだ、コーヒー、コーヒー」
 ケトルを火に掛けたままだったことを思い出し、慌てて階下に戻った。スリッパがぺたぺたと情けない音を立てた。
 シュンシュンと白い息を吐き出すケトルを見て、火を止めたとき、
「っくしゅん!」
 何故か急に、くしゃみが出た。
「……?」
 鼻を擦りながらインスタントのコーヒーを煎れ、誰かに噂でもされているのかと無意識に辺りを見回していた。あの口の悪い友人か、それとも案外、弟からのメールが原因からもしれない。
 シンクに小さな皿があって、白っぽい液体で濡れていたのを、思い出した。


 U 誰かがきっと此処にいる

 昼休み。壱河ケイゴが友人のクラスに寄ったのは偶然でも必然でもなく、単なる気紛れだった。そういうとき、漠然と説明出来るような根拠を求めてはいけないし、必要でもないだろう。
 つまりは、友人の教室を訪ねるために、そんな理由を一々持ちはしないということ。
「鳴海?」
 一目見て、相手の姿が教室にないことは分かった。
 廊下に一番近いところの席にいた顔見知りの生徒に尋ねると、調理パンを口に銜えたまま、鸚鵡返しで尋ね人の名を繰り返した。
 ケイゴが頷くと、
「鳴海なら屋上じゃない? 最近はいつもそうだよ」
「そう。どーも」
 素っ気なく礼を言って、ケイゴは再び廊下を歩き出す。
 屋上、といっても、彼らの通う学校には屋上が二つある。教室がある一般校舎と、事務室などがある管理校舎のそれぞれで、今も前者には物好きな生徒が昼食のための憩いの場として利用していることだろう。
 十月、衣替えも終えて、冬支度を始める地方もあることだろうと思う。もっとも、彼らの街には未だ夏の名残がしぶとく残っていて、日中と朝夕の寒暖さを大きくしていた。直射日光の下にいれば汗ばむ陽気が続いていて、屋上が閑散とするにはまだ早い。
 とはいえ、もう一方の屋上は人影はいつも微少だ。丁度屋上に出る直前の階段の踊り場が、物置のように色々なものが積まれているため、そちらに屋上があることを知る生徒も少ない。
 しかし、その日の空は薄曇りで、流石に風で少し肌寒い。天気予報では夕方から雨になる確率が高いということで、登校する間に、傘を持った人を大勢見掛けた。
 秋雨は、旅情を演出するには最適と言う人もいるかもしれないが、大抵の人にしてみれば梅雨のようなもの寂しさしかもたらさないものだ。遠足や運動会が雨で延期される経験を持たない人がいないように、イメージは逆から辿られるのが殆どなのである。
 資材置場と化した踊り場を抜け、少しばかり蝶番の錆びた扉を開けると、
「直感は信じるべきなのかな」
 タイを緩め、ケイゴはそう一人ごちる。
 彼の視線の先には、ワイシャツの上に灰色のベストを着た少年が、転落防止用の柵に背を向けて預けて昼食の真っ最中だった。ケイゴの探し人では、ない。
 奥井ムツミ。ほんの数ヶ月前の初夏に知り合った少年だ。ちょっとした『事件』を機に、彼と話をするようになり、以来ケイゴの悪友の一人である。
 中途半端に伸びた髪が、顔の三分の一を隠している。そのせいで表情がはっきり伺えないが、ケイゴの姿をはっきりと視界に捉えた瞬間、僅かに薄い茶色の目許が緩むのが分かった。
「野良猫だねえ、きみも」
 ゆっくりと近づきながらケイゴが言うと、
「……なんだよ、開口一番に」
 上目遣いで軽く睨まれたので、小さく肩を竦める。
「別に? 思ったことを口にしてみただけ」
 応えながら、屋上を見渡す。お目当ての少年の姿はなかった。
「一人?」
「ああ。……きみがここに来るもの、珍しいんじゃないのか」
「まあね」
 だって外は寒いし、とケイゴが言い、それは僕のせいじゃない、とムツミが応える。
「今日は……、見てないな、そういえば」
「珍しいじゃない。鳴海くんお手製の弁当は、もらえなかったの?」
 彼の手にしている調理パンを見て、茶化すように言ってみた。案の定、
「茶化すなよ。これが僕の普通なんだから」
 不貞腐れたように口を尖らせた。
 友人への好意で、しばしば昼食の弁当を作ってもらうようになった彼である。
「そう毎日毎日、煩わせるようなこと、出来ないだろう?」
 困ったような口調で、多分それは同意を求めたのだろう。
「で、今日はパンなわけね」
 ケイゴが事実を見たままに口にすると、
「弁当は……、一日置きで、持ってきてもらってるけどな」
 最後の方は、消え入りそうな声で言うのだった。
「幸せな身分だねえ」
「『毎日でもいいぜ』って言うんだ、あいつ。そりゃあ嬉しいけど、そこまでされたら逆に、申し訳なくなってくるさ」
「分かるなあ、それは」
 流石にその発言は、笑いを堪えるのに苦労した。
 深呼吸が気持ち良い天気ではなかったが、すう、と屋上の空気を吸い込んで、
「煙草、持ってるかい」
 一つ、訊いてみた。彼は喫煙者だったと聞いた覚えがある。
「吸うのか?」
 すると、似合わないな、というような視線で問い返された。
「いや? 僕は吸わないよ。健全だろ?」
 それはケイゴの口癖の一つで、
「自分で言うなよ、そういうことを」
 如何にもわざとらしい応えのせいか、ムツミは苦笑いを見せる。
「煙草より不健康なことは、幾らでもあるけれどね」
 半年前は形だけとはいえ、吸っていたことは、ケイゴはムツミに話していない。
「それは、まあ、その通りだけど。…もう、持ってきてないぞ、煙草は」
「止めたの、煙草」
「ああ……、一応、努力はしてる」
「うん、良い傾向だね」
 ケイゴは、二三頷いて、
「弁当が良い薬になったのかな」
「良い薬って……、それ、使い方が間違ってないか?」
「分かってるよ」
 ふふ、と笑う。可笑しかったからではなく、少し楽しかったからだ。
「でも、コウタの弁当、美味しいだろ?」
「……ああ、まあ、ね」
 ケイゴが言うと、仕方なく、けれど否応なく、というようにムツミは頷く。
 渦中の人、鳴海コウタの料理の腕は、正直高く評価されるものだと思う。ムツミもそれは知っているはずだ。
「ちゃんと、美味しそうに食べてあげてるかい?」
「どういうことだよ」
「きみって、詰まらなそうにご飯を食べる人なんだなあ、って思ったものだから」
「……放っといてくれよ」
 不貞腐れたようにムツミは応え、即座に人差し指を振ってみせた。
「その台詞は、彼の前じゃナシだよ」
「あー……」
 軽く嗜めると、ムツミは決まりの悪そうな顔で、
「……分かってる。それくらいのことは、気遣いでもなんでもないよ」
「まあ、そうだね」
「口癖なんだ、これは」
「誰にでもあるよね、一つは」
 両手を後ろに回し、腰の下で手を組んで、ケイゴは頷く。
「こないだ、彼の家で晩御飯をご馳走になったとき、随分嬉しそうな顔をしてたのにね」
「それは……、そうすると、あいつも嬉しそうな顔、するから、さ」
 心なしか照れたような口調で、ムツミは応える。
「仕方なく、してるとでも? 素直じゃないね」
「素直じゃないのは、お互い様だろう?」
 鋭く指摘されて、ケイゴは肩を竦めた。ムツミは言葉を続ける。
「だったら、『美味しそうに食べてあげてるか』なんて訊かないでくれ」
「そんなことはないよ。前にも言っただろう? 僕は自分に正直な奴なんだって」
 それは多分言い訳の一種だろうと分かっていても、ケイゴはそれを口にする。
「ああ……、そうだったな」
 ついでに言えば、彼らの『素直じゃなさ』は、その時に確認済みだった。
「そういうの、きみの気遣いか?」
「気遣い……、さあ、どうだろう」
 ほんの僅かずつ、空が暗くなっていくような気配を感じながら、ケイゴは応える。
「友達思いを装うのも大変なんだよ、ってことかな」
 そう言うと、ムツミは僅かに眉を寄せる。
「なんだよ、それ」
 咄嗟に口を掌で覆う。失言だったかもしれない。
「僕の冗談は分かりにくい、って評判が良いんだ」
「冗談だろ?」
 ようやく、ムツミも口元で笑みを浮かべた。
「奥井ムツミくんを妙に気に入りな、その鳴海くんだけど…」
「……止めてくれないか、そういう言い方」
 まあまあ、と彼を宥めて、ケイゴは言い直した。
「ゴメン。その彼だけどね。僕も今日は見ていない。何処にもいないんだよ」
「何処にも?」
 怪訝そうな顔をするムツミに掌を翳し、
「ああ、勿論、学校には来てるみたいだよ」
 そう付け加える。
「ちょっと、用があってさ。さっきからずっと探してるんだけど、何処かに隠れたみたいにいなくなっちゃったみたいなんだ」
 ふうん、と故意か無意識か、その気のなさそうな声で返事をする。
「だから、まあ、用事はそれだけなんだけどね」
「井戸端会議だな」
 ムツミは皮肉気に口元を上げた。
「そうでもないよ? 僕はきみと話してて、結構楽しいけどね」
「それは……、光栄だ」
「どーも」
 ひらひらと手を振って、ケイゴは踵を返す。ムツミは再び、静かな昼食を始める。
「……そうだ」
 振り返って、一つ尋ねてみた。
「きみは、猫、飼ったことあるかい?」
「いや……、ないけど」
「そう」
 不思議そうな視線を向けるムツミに笑顔を返し、ケイゴは屋上を後にした。


 V きっと彼は、其処にいる

 一時間ほど前から降り出した雨は、少し雨足を早めたようだ。
 奥井ムツミは、帰宅間際に降り始めた雨に、悪態を付くほどではなくとも、雨は憂鬱を運んでくるという役に立たない通説を信じそうになった。
 空気の色までが変わってしまったのではないかという錯覚を覚えずにはいられない。気圧が変化するからだろうか、少しばかり胸が苦しくなるときがある。それもきっと錯覚のうちなのだろうとは思うのだが、病は気からというように、そんな思い込みが一番意外な症状をもたらすものなのだ。
 小さな鳴き声のような音が聞こえ、ムツミは顔を上げた。野良猫が雨に濡れながら騒いでいるのだろうかと、耳を澄ませてみたが、しばらくそうしていても物音は続かなかった。
 その代わり、妙な予感がした。誰かが…、何かが、外にいるような。人の気配を感じ取れるほど彼は鋭敏な神経を持っているわけではないが、そういう直感は信じてみてもいいと思う。
 サンダルを突っ掛け、玄関の鍵を開けて外を伺うと、
「コウタ……ッ」
「あ……、ムツミ……――」
 もう顔見知り、なんてよそよそしいものではない間柄の少年が、そこにはいた。見慣れた制服ではなく、ティーシャツにパーカー、ジーンズの姿で。
「どうしたんだよ、こんなところで、そんなに濡れて――」
「ゴメン、な。勝手に、来ちゃって……」
 あはは、と小さく笑みを浮かべるコウタは、うずくまるようにして玄関の軒下に座り込んでいるのだった。しっとりと濡れた髪が額に貼り付き、ムツミの知る溌剌とした少年の陰が消えている。
「迷惑かと思ったんだけど、ここが一番、学校から近かったから」
「学校、行ってたのか? どうして。傘は持っていかなかったのか」
 私服姿だったからそう訊いたのだが、
「えっと……、忘れ物、取りに行ったんだ。けど、教室には入れるかどうか、慌ててたから。肝心なとき、ドジなんだ、オレって」
 ムツミの問いにそう応えると、コウタは困ったように笑みを浮かべて、僅かに俯いた。
「雨宿り、させてくれないか? ここでいいからさ」
 俯いたまま彼は言って、
「――莫迦言わないでくれ」
 天を仰いで、ムツミは応えた。降り続く雨は、簡単にはやむ気配を見せない。
「……中、入れよ。風邪引くだろ」
「でも――」
「いいから。そのつもりで来たんじゃないのか? たまには、僕の言うことを素直に聞いてくれ」
「――ありがと……」
 腕を取って立ち上がらせると、前髪からポツンと落ちた雨滴が、アスファルトを濡らした。


「ホラ、拭いて拭いて。その濡れたのも脱いで――」
「あ、ちょ、待って……ッ」
「なんだよ。早く脱いじゃわないと、本当に…、あれ?」
 浴室からタオルを持ち出し、雑にコウタの濡れ髪を拭いて、変に抵抗しようとする彼を急かし、衿元を引っ張って脱がせようとすると、パーカーのフードに、何か薄茶色の塊が入っているのが目に留まった。
「それ、何だ?」
「え?えっと、……あのさ」
 コウタは、ぎこちなく手を首筋に回し、もそもそとそれを撫でた。
 それは、ナァウ、と消え入りそうな小さな声で鳴いた。
「猫……?」
「……うん」
 耳がちょっと垂れていて、スコティッシュ・フォールドに良く似ていたが、多分雑種だろう。
 しかし、どうして猫が彼と一緒にいるのだと、ムツミは、
「どうしたんだ、こいつ。拾ったのか?」
「――うん。校舎裏で……、」
 応えかけて、コウタはコホン、と小さく咳をした。
「親とはぐれちゃったみたいなんだ。見つけたときから何日もそこにいたから、どうしても気になっちゃって、ゴハンとかあげてたんだけど。そうしたら、なんだか懐いちゃって、それで――」
 悪戯が見つかったときのようなたどたどしい口調で、彼は応える。
 何故だか。彼らしくないような気が、ムツミにはした。
(それで、連れてきたのか)
 忘れ物なんて、下手な嘘つくなよ、とムツミは事の成り行きを悟った。
「お前、今日の昼休みに校舎裏に行ってたんだろ」
「なんで、知ってるんだ?」
「ケイゴから聞いた。最近、お前、昼休みになると何処かへ行っちゃう、って」
「……そうなんだ」
「大体、猫なら…、学校の校舎なら、幾らでも雨宿り出来るところ、あるだろ」
「そっか…、そうだよな。オレ、何やってるんだろ――」
 はは、と力無く笑うコウタは、本当に彼らしくないと、少し不安になり、顔を覗き込んでみると、頬が少し上気しているような気がした。
「お前、ちょっと、息が熱いぞ」
 彼の口元に掌を近付けて、ムツミは告げる。
「なに、変なこと言ってるんだよ……」
 冗談を咎めるような、苦笑を孕んだ声でコウタは言ったが、
「ホラ、額だってこんな。熱があるぞ、莫迦」
 コウタの額に掌を当てて、
「風邪、引いてるんじゃないか、もう。……しっかりしろよ、お前らしくない」
 少し慌てて、タオルを動かす手を忙しくさせる。
「じゃ……、オレ、帰った方がいいよな」
「莫迦言うなって、先刻言ったばかりだ。それに」
 帰宅の申し出を始めるコウタにムツミは、
「コイツはどうすんだ?」
 タオルに包んでソファに置いた猫を指差す。
「あ……――」
「休んだ方がいい。ミサキの部屋のベッドが空いてるから、貸してやる」
 自分自身、これは自分らしくないと思いながらも、コウタの手を取って、ムツミは無理矢理二階へ引っ張り上げた。もう一方の手には、猫を抱えて。


 ムツミの弟、ミサキの部屋は、今は使い手がいない。飾り気の無いシングルベッドが誰かの役に立つ時が来るとは思っていなかったが、ムツミはクロゼットから毛布を引っ張り出し、コウタを潜り込ませた。一緒に猫も寝かせてしまう。
「ゴメンな。オレ、ホントに考えなしだから」
「その言い訳は、前にも聞いた。……しばらく、休んでいけよ。僕は迷惑じゃないから。せめて、雨が止むまで。家には連絡してやるから」
 ベッドの角に腰を下ろし、ムツミはコウタを見下ろした。
「お兄さん、もう帰ってきてるか?」
 コウタの両親は共働きで、今は兄と二人暮しのはずだ。
「……まだ、帰ってきてないはず。留守電に入れといてくれれば、いいから」
「分かった」
 数秒、沈黙があった。
 何でもない、会話が途切れただけの、数秒だった。
 けれど、その数秒は、ムツミが遠くない過去を思い起こすには十分だった。
「……ミサ――」
 口にしてしまってから、ハッとムツミは口を抑える。
 あまりに不覚な失言に、決まりが悪くなる。すると、
「大丈夫、ムツミ……?」
 熱のせいか、微かに掠れた声で、コウタは呟いた。
「――何がだよ。人のことより、自分の心配をしろよっ」
 自分の心情を隠すように、コウタの額にデコピンをした。ぱちん、と妙に小気味の良い音がした。
 そういうときに限って、爪が綺麗に当たった。
「痛っ」
 反射的に、コウタは目をギュッと瞑る。
「……悪い」
「謝るなら、するなってば」
「してしまったものは、取り消せない。だから、ゴメン、だ」
「その言い方は、狡い」
「なら、今のは取り消す。後で僕にもすればいい」
「……そうする」
 目許だけでコウタは笑みを浮かべた。
「ムツミ」
「ん?」
 屋根からか、トツトツと水滴が落ちるような音がした。それに被さるように、コウタは何でもないことのように、言った。
「オレとトオルって、本当の兄弟じゃ、ないんだ」
「え……?」
 突然の告白に、どういうことなのかと目を見張る。
「トオル、って、お前の兄さんのことだよな?」
「そう。……オレの母さんと、トオルの父さんが、再婚して、それでそれぞれの息子が兄弟になった。そういう家庭なんだ、オレのとこ」
「再婚……――」
 そう、とコウタは毛布と一緒に顎を上下させる。
「元々、今の父さんと母さんは従兄妹同士でさ――」
 『今の』なんてヤな言い方だよな、と少し自嘲するように呟いて、
「――若い頃から、割と仲も良かったんだって。で、それぞれ別の人を好きになって、結婚して、オレやトオルが生まれた。けど…、嫌な偶然ってのも、あるんだよな。殆ど同じ時期だったらしい、不幸な事故で、お互いの伴侶が亡くなって――」
 すん、と小さく洟を啜った。それが風邪のせいだったのかは、計りかねた。
 名前のない猫は、布団の中で寝てしまったのだろうか、出てくる様子はない。
「もう、十年以上前の話だよ。オレが二歳か三歳の頃だったって。オレ……、最初の父さんの顔、全然、覚えてないんだ」
「そう、なのか――」
 言葉が出なかった。何を言っても、彼を傷つけるものにしかならないようで。
「それで……、その後、付き合いは前より深くなって。似た境遇だったからだね……、何年も後になって、男と女の、そういう関係はなしで、オレとトオルのために一緒にならないか、って話になったんだって。それは生涯一度の愛からのものではないけれど、互いの二度目の人生を大切にしたい、って想いが重なって、……今の家族になった。
 だから、オレとトオルは、正しく言えば義兄弟ってヤツなんだ。けど、従兄妹の二人が別々な相手と子供を持ったわけだから、完璧に他人ってわけでもない。八分の一くらいは血が繋がってるんだ。ヘンな話だよね」
 そう言って、コウタは少し笑った。
 話は単純ではないのだ、とムツミはようやく思い至った。コウタと、彼の兄、トオルの親である二人の男女は、少年たちの親であると同時に、兄妹のようなものなのだ。
 ひとたび歯車が狂えば、それは家族を演じる者たちの戯曲になってしまう。相手を本当に思い遣れる二人であったからこそ、互いを、そして互いの息子を受け入れ、新しい家族を構築し直す切っ掛けを提案することが出来たのだろう。
 そして、そんな両親を知るコウタは、爛漫なだけの少年ではないのだ。
 熱は記憶の棚を無意識に開かせるのだろうか、おぼつかない口調で、彼は話を続ける。
「従兄妹同士で、姓が同じだったから、オレも母さんも苗字は前と変わってない」
「その前は? 結婚するときには姓が変わるだろ、一方の方に」
 ムツミが遠慮がちに訊くと、コウタは、
「旦那さんの姓を変えたって、法律上の問題はないんだって。オレの母さんは、オレを育てるために働いてたから、苗字は鳴海のままで通したい、って言ったんだって。そのまま押し通したんだ。…負けん気の強い人なんだ」
 今度は、先刻より柔らかな笑みが漏れた。
「母さんは、女手一つでオレを育ててくれて……、じゃあ、家の中のことはオレがする、って言ってさ。小学校の頃から色々母さんに教わった」
 意外だった。コウタの家庭科模範生は、才能でも、器用さの応用でもなく、独学と教授の賜物だったというわけだ。
「だから、そういうことが得意になったんだな」
「そういうこと」
 ふう、と深呼吸をするみたいに息を吐いて、
「前に、夕ゴハン食べに、ウチに来ただろ?」
「ああ」
「そのときの献立のレシピ、あれ……、トオルから教わったヤツなんだ」
「そうなのか」
「他にも沢山、オレの持ってるレシピは、皆トオルの得意だったっていうものばかりでさ。トオルはトオルで、父子家庭だったから……、母親代わりに家事を努めていたみたいなんだ」
「成程ね」
 ムツミが相槌を打つと、コウタは再び、昔を思い出すように遠い目をして、
「ほんのちょっと、最初の頃は、オレもトオルも、ぎこちなく過ごしてた。父さんと母さんが再婚したとき、オレはともかく、トオルはもう十歳くらいだったから、突然母親と弟が出来たとなれば、困るのも当たり前だろ?」
「……そうだな」
「でも、そういうのはやっぱり、時間が解決してくれる。流石に『兄さん』なんて呼ぶのはいつまで経っても恥ずかしいけどさ。距離を近づけるのは簡単なんだ。オレたちの場合は、トオルの得意な料理を教えてよ、ってオレが言い寄ったのが始まり」
 照れくさそうに、彼は言った。
「分かるような、気がするよ」
 何となく……、何となく、分かるような気がしたから。
 ムツミも、一人の少年の兄なのだ。そして…、
「ということは――」
 どうしてトオルはコウタに家事を任せっ切りにしているのかが、少し分かったような気がした。
「ああ……」
 コウタに問いかけようとして、ムツミは口を噤んだ。
 多分、そうなのだろう。
「いや、話さなくて、いいさ」
「なんだよ、言いかけて止めちゃうなんて」
「何でもない」
 ムツミは首を振って、話を終わらせるに努めた。
「もう、寝ろよ。何も考えずに」
 話し疲れたのか、目付きが薄くなり始めたコウタを見て、口元まで毛布を引き上げた。
「お前が眠るまで、ここにいてやるから」
「ん…、ありがと…――」
 コウタは、ゴメン、とはもう口にしなかった。
「ありがとな…、ムツミ」
 何に向けてか、礼を繰り返す彼に頷きを返し、寝付けない子供にするように、髪を撫でた。
 今度の沈黙は、何故か安らかな空気を感じさせた。
 ムツミは静かに、少し癖っ毛のあるコウタの神を指に潜らせていた。
 やがて……、すう、と寝息が穏やかなものになり、ムツミは身体の力を抜いた。
 けれど、まだコウタの元から離れようとはしなかった。
 もう少し、傍にいてやろうと思った。
 それは多分、気紛れではなかった。
 (お前こそ、話してくれて、ありがとな)
 声には出さず、彼は呼び掛ける。
 少し哀しくて、少し暖かい物語。
 心なしか、雨足が少し緩んだような気がした。


 W そして、彼はずっと其処にいる

 窓際で、いつまでも止まない雨を眺めながら、彼は電話の子機を何度も持ち替えていた。
「はい。じゃあ、お願いします。明日の朝、迎えに行くから……、はい。それでは」
 金曜の夜。家に戻ったのは、九時過ぎだった。玄関の鍵は閉まっていて、中に入ると電気は付いていなかった。コウタは何処かに出掛けたのだろうかと思いつつ、留守電のランプが点いているのを目にし、再生ボタンを押すと、奥井ムツミという少年から、弟を預かっているとの電話だった。
 折り返し――と言っても、三時間後の返信だったが――電話をしてみれば、妙な話を打ち明けられた。なんでも、濡れ鼠になった彼が、猫を抱えて雨宿りにやってきた、と。
 大したことはないが熱があるので、一晩様子を見させて欲しい、というので、今夜はムツミ少年の家に弟を泊まらせる旨を了解し、礼を言って、電話を切った。
 友人の家に泊まるくらいで目くじらを立てるような人間ではない。家事手伝いは飽きるほど経験のある身だ。……もっとも、ここ数年は弟にその殆どを任せっ切りだが。
 トオルは、自分でも無器用な人間だと思っている。相手の主張があれば、それを全て受け入れて、相手の好きなようにさせてやりたい、と思うほどに。コウタが自分に助けを求めてきたなら、トオルは喜んでするだろう。彼の場合は、その逆もまたしかり、という現状が客観的には問題に見えてしまいかねないのが問題なのだ。
 言葉で説明すると、単純なことなのだけれど。
「猫、ね……」
 そんなことだろうとは内心思っていたが、安心半分、不安半分だった。猫一匹のために濡れるくらい、平気でしてみせる子なのだ、コウタは。優しさと引き換えの不器用さは、自分と似ているところがある、とトオルは苦笑いする。
 家に住まわせるなんてことになったら、とんでもないことになるだろうと想像が付いた。
 トオルは、重度の猫アレルギーなのだ。
 多分、昨晩、コウタは一度猫を連れてきたのだろう。朝、シンクに置かれていた白く濡れた皿は、猫のためにミルクをよそってやったためだろうと思うし、その傍でトオルがくしゃみをしてしまったのは、近くに落ちた猫の毛をスリッパで舞わせてしまったからかもしれない。
 推測に過ぎないが、猫の毛にやられた日の夜には、必ずというほど奇妙な夢を見る。本当に奇妙過ぎて、脳が無理矢理に夢の内容を記憶させまいとするから、その点は間違いないとトオルは思っている。昨夜も、確かに奇妙な夢を見たのだ。
 しばらくはコウタの部屋には入れないな、とトオルは頬を掻く。
 キッチンの埃っぽさは、埃ではなく、猫の毛のむず痒さだった。それをメールで確認したコウタは、実験が失敗したことを知って、もう連れ帰るのは止めようと思ったことだろう。苦吟の末、学校に猫を連れ戻し、引き取り手を捜すべきかと迷ったに違いない。
 そして、夕刻だ。一晩一緒に過ごしたせいで、情が移ったのだろう。一つ、気になることが胸に沈んでしまったから、それがどんなに小さなことでも行動の動機として移せることは、コウタの良いところであり、特に不運な出来事を呼びもする。
 コウタは、もう家には連れていけないと思ったはずだ。かといって、学校に置き去りにも出来ない。となると……、学校に近い友人の家を訪れる、という選択肢が直ぐ様彼の脳裏に思い浮かんだと考えて、おかしくない。
 果たして、トオルが帰宅すると、コウタの友人から掛けられた留守電がのこされていたわけである。風邪を引いた弟を預かっていると。良い友人を持ったな、とトオルは兄の心境で思う。
 トオルが猫アレルギーなのは、ある意味で皮肉なのかもしれない。ほんの稀に、今回のように、兄弟の距離を遠ざける。仕方のないことなのだが、少しだけ、悔しい。
 猫。
 いつかは一緒に飼いたい、とコウタが言っていた。猫が嫌いなわけではないだけに、彼には申し訳なさが先に立つ。
 ――そう言えば、コウタと初めて会ったのは、近所の空き地ではなかっただろうか。住人がいなくなって取り壊しがされた跡地に野良猫が多く集まり、それらと遊ぶ少年たちが集まった、あの空き地。
 既に消化してしまったはずの、脳裏に浮かんだセピア色の情景に、トオルはうっすらと笑んだ。
 その笑みには、微かに憂いが混じっていたことに、彼は気づいていない。


 コウタの友人、ムツミ少年の家に、小さな家族が増えたのは、その翌日のことだった。弟を迎えに奥井家を訪れたトオルは、いきなり盛大なくしゃみをし、コウタは遠くでゴメンと謝り、服を叩きながら、直ぐ様嬉しそうな声で告げたのだ。
 その横で、ムツミ少年は困ったような顔で、けれど柔らかな笑みを見せた。
 猫の名前は、セピア。
 遠目に見た、淡い、灰味の茶をした毛の小猫は、その名にぴったりの猫だった。
 その時、前日の雨に感謝して良いものか、トオルが迷ったのは正直な話だ。弟の笑顔が失われるのではないかとの危惧があったのは確かだし、そして、それは、取り敢えず、コウタには聞かされていない。

 少年たちと猫の出会いには、もう少し続きがあったらしい。
 その場にはいなかった、もう一人の少年と、やはり猫の話。
 だが、それは、トオルの知らない別の物語だ。


("Misty Mission's Meadow Another" is closed.)


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