二つ目の冴えたやり方


 タンタンタン、と同じテンポで階段を五十八段、上る。少し、息が切れた。
 校舎を一階から四階まで上がるだけで、身体に負担が掛かるように思う。そんな自分の不甲斐なさに悪態を吐きたくもなるが、それももう慣れてしまったことだと深呼吸をすることで自分を宥める。
 生まれつき心臓が弱いことは、生きること、そのもののハンデになる可能性である。それが今のところ、心臓病とまでに明確な形となって現れてはいないことが、せめてもの救いだろうか。
 貧弱な肉体に鞭を打つのは、得策にはならない。それでも、世間では貧血と仲の良い奴、という認識程度で留まっていてくれているのだろうか。これはこれで、あまり嬉しくない。 意図せず火照った身体に、日中の風は思いも寄らず心地良く吹き掛けてくる。
「ふう…」
 ほっと息を付くと、『息を付いた』ことによる逆接的な安堵を感じることが出来る。それは少し違和感を伴う安らぎだけれど、もしかしたら…、背徳的な怠惰への憧れを押さえつける自尊心の別の形なのかもしれないとも、思う。
 昼休みの屋上は、静かだった。他者の人影は見られなかった。
 そう広くもない敷地の上に、ムツミという名の少年の影が一つ。…そんな考え方をしてみたら、意味もなく少し可笑しくなった。
 天空には、澄み切った青空と純白の綿菓子のような雲。のんびりと漂い流れる雲が、灰色のコンクリートの床に薄い影を作っている。
 この学校には、二つの屋上がある。一般教室がある中央校舎の四階部と、職員室や事務室がある管理校舎の三階部。僕がいるのは後者だ。とはいっても、生徒が屋上に出ることを禁止されているというわけではない。実際、昼休みになると中央校舎側の屋上には幾人もの生徒が自然と集まり、昼食を食べたり、他愛のないお喋りをしたり、昼寝をしたり…、まあ、何処の学校にも見られる賑やかさがある。
 一方、管理校舎の屋上は、閑散としている。年度末に捨てそこなった古い教科書や、何が書かれているのか確かめる気にもならない書類などが詰まった段ボールなどが、屋上に繋がる扉の手前の踊り場に積まれているから、普段なら誰も、その間を縫ってまで屋上に出てこようとは思わないようだ。
 僕にとっては有り難い…、というわけでもないけれど、騒がしいよりは静かな方が性に合っているらしく、一人でこっそりやってきて昼ごはんを食べたり、次の時間の授業をサボりつつ本を読んだり、MDプレイヤで音楽を聴いたり、昼寝をしたり、…誰も見ていないのを良いことに、ちょっとだけ背徳的なことをしたりしていた。
 まあ、せいぜいが隠れて煙草を吸うくらいのレベルのこと。 要するに普段、人が滅多に来ないということなのだが、鍵が開きっぱなしなのは流石にどうだろうと思わなくもない。もしかしたら、好きものの先生がいたりしてな、と、僕と同じ路線を歩いているかもしれない架空の人物を想像するだけで後ろ暗くも楽しくなった。

 屋上特有の風で、ぱさぱさと長い前髪が睫毛に触れて、くすぐったい。いい加減切ろうかと何度も思うのだが、その下にあるものが慣れない人には物珍しいものとして目に映るだけに、露にするには気が引けるのだ。
 僕の目は、オッドアイだ。
 生まれつき、遺伝子配列の手違いで、右目と左目の色が、違う。右目が黒に近い濃い鳶色、左目が薄い茶色。じっと覗き込まれないと意外に分からない、なんて言われるけれど、それでもこういったことは珍しがられることが多くて、正直鬱陶しいから、自ずから隠すようなことになってしまった。
 髪や肌などの色素が人より薄いのも、その辺りが影響している。人によっては『格好良い』なんて言うかもしれないが、これは心筋系の病の享受――皮肉だが――なのだ。僕の身体を構成する遺伝子の一部は混迷している。
 障害とは呼べないが、特異な特徴であることには違いない。正直なところを吐露すれば、気恥ずかしいのは確かで、だからといってわざわざコンタクトを使うのは、自分に対して卑怯な気もする。結局の所、僕は自分で思う以上に、意地っ張りで負けず嫌いなのかもしれない。
 制服だからという理由で着ているだけのワイシャツが、屋上風でパタパタと鳴った。少し前までは胸ポケットにいつも煙草の箱が入っていたが、最近はそれを吸う気にならず、転じて持ち歩いていない。鞄には依然、潜ませているけれど。
 いちいち五月蝿く言う奴がいるからだ。
 ソイツは、僕と同じく偶然に『隠れ屋上』を見つけたクチで、時々風に当たりに来ているのだと言った。当初は、屋上を独り占め出来るなんて都合の良いようにはならないか、くらいにしか思っていなかったのだが、次第に彼の方が僕の姿を探すようになり始め、仕舞いには下手に口を出し始めた。
「ダメだってば! 授業サボって屋上に来てもいいけど、ここで煙草はダメ!」
 といった具合に。…授業をサボるのはいいらしい。
 僕がシガレットを銜える度に言うものだから、今ではパブロフの犬状態だ。箱を開けたときに漂う葉っぱの匂いを嗅ぐだけで、回りにソイツがいるんじゃないかと思ってしまう。禁煙が人の言うように簡単に出来るものじゃないことは明らかで、…如何に同じ台詞を繰り返されたか想像が付くだろう。
 胸の辺りまである高さのフェンスに寄り掛かり、何をするともなく校庭に目を向けると、いち早く敷地を大きく使い、サッカーに興じる少年たちの姿があった。
 その中に、
「あれ…、コウタか」
 見覚えのある…、なんて程度の間柄ではない少年の姿が目に留まった。
 名前は、コウタ。知り合ったのはほんの二ヶ月ほど前のことだったのに、いつの間にか僕は彼の姿を探すことに慣れてしまっている。彼の姿は、何故か僕の目に留まりやすい。
 小柄な身体で抱え込むようにしてサッカーボールを蹴り、果敢にドリブルで正面突破を試み、華麗とは言えないが数人のディフェンスを掻い潜り、しかし、まあ、敵側の少年が勢い良く飛び込んできた守備に最終的には足を引っ掛けられ、
「痛…っ」
 見ているこちらがそんな呟きをしてしまうような、見事な転び方をした。
 砂埃をもうもうと立ち上がらせながらも直ぐ様起き上がり、あはは、と笑顔になってみせる。
 その顔は天真爛漫といった感じで、本当に走り回ることが好きなんだな、と嘆息したくなる。確か、彼の背丈は僕より頭一つほど低かったと思うが、身体能力は僕の比ではないと思う。彼の元気さを少しでいいから分けてもらいたい。
 そういえば、以前からお昼休みのサッカー組の中に、良く動き回る少年がいるな、ということをチラリと思ったことがある。それもコウタだったのだろう。愛玩動物…と言うと大袈裟か。頭に『小』が付く犬や猫のように、あちこちで楽しそうに声を上げ、屈託のない表情を見せている。
 飼い主が投げたボールに向かって、尻尾を振りながら全力ダッシュを披露する小犬のようで、失礼かもしれないと思いつつも、思わず笑みが漏れた。…もしも彼を動物に例えるとしたら、僕は一番最初にスコティッシュ・フォールドを思い浮かべるだろう。
 いや…、スコティッシュ・フォールドは、猫だったかな。
 思い出せなくて、一瞬天を仰ぎ、数秒考え、結局思い出せなくて視線を戻すと、
「!」
 彼の視線が、こちらを向いていた。
 思わず身を退きそうになってしまったのは、僕と彼の視線が見事にかちあってしまったためで、
「しまった…」
 そう呟いてしまったのは、コウタの笑顔の印象が微かに違ったものに変わったからだ。
 友人と談笑していた際、ふと逸らした視線の先に風邪でご無沙汰していた知人の姿を捉えた瞬間、のような…。ある意味では、一瞬の驚きを伴う表情。
 彼が小学生だったら、こう言ったに違いない。
「みーつけたッ」
 彼は大袈裟なほどの身振りで大きく手を振ってみせ、僕が動くよりも前に、近くに寄ったサッカー仲間に何事かを話すと、校舎に向かって駆け出した。
「あの莫迦…」
 こちらに来るつもりなのだ、コウタは。大好きなサッカーを途中で放り出してまで。
 頭を抱えたくなった。彼は未だに、僕の失態を手土産にして僕に会いに来る。

『暇があったら、出会った場所に。』

 僕たちが知人となる線の手前にいた頃のことだ。両人が訪れていたウェブサイトの掲示板に、僕はそんな書き込みをしたことがある。宛て名は、コウタ。当時、彼はあるネット関連の問題…、というか、悩みを抱えていて、その矛先が僕に向かったのだ。それは偶然半分、必然半分で…、
 まあ、今はもう思い返すだけの、過去の話の中に埋没しようとしていることだ。
 その書き込みをしたのは、確かに僕だ。…けれど、それを理由に僕に会いに来ないで欲しい。
 何度か、そう思ってしまった。
「だって、暇だろ?」
 それを合い言葉に、何かにつけて、適当な理由を付け、コウタは屋上にやってくる。それも、僕がいるときを狙ってだ。何か楽しい話題を用意しているわけでもないのに。サッカーを放ってまで来るメリットがあるとは思えないのだが、顔を見れば犬みたいに寄ってくる。
「僕は、お前のご主人様じゃないぞ、まったく…」
 疑問を、そんな呟きで濁した。
 行き掛けに、昼食を買いに寄ってきた購買部の袋から、パックのコーヒーを取り出す。ストローを突き刺し、わざと音を立てて啜った。
 空は、無意味なほどに綺麗に澄んでいる。
 パタパタパタ、と恐らくは突っかけているだけだろう上履きの鳴る音が聞こえ、段々それは耳に大きく響いてくる。やがて、
「ムツミッ!」
 ガチャン、と少々もどかしげに扉を開け、見飽きた少年の姿が屋上に現れた。僕は柵にもたれ掛かったまま、手を上げて軽く振ってやる。
 ずっと走ってきたのか、コウタは少し息を切らせていた。そこまでして僕を観察したいのか、と思う。額の汗を拭うと同時に前髪を掻き上げ、
「やっぱりいた。最近、会えなかったからさ。ちょっと心配したぜ?」
 ――それは、別に会おうと思わなかったからだ。
 そんな風に撥ね付けてやるのは簡単だったが、代わりに出たのはズズ、というストローが立てる情けない音だけだった。口を離して、
「心配って、なんだよ。そんなことを言う割には嬉しそうだな」
 皮肉を込めて言ってやったのに、
「べっつにぃ? 今日も元気なムツミの顔が見れて、嬉しいんだよ」
 にかっと笑って、言い返された。
「変な言い方をするなよ。逢瀬を愛しむ通い妻みたいだ」
「また、そんなことを言う…、オレはお前のこと心配してやってるのに」
「別に、心配してもらいたいとは思っていない」
 ついつい、突っけんどんな言い方をしてしまう。
 コウタは少し、ム…というような表情を作り、
「訂正。オレは、お前のことが心配なの。勝手に、してるの、心配」
 そんなに力強く言わなくてもいいのに。
「…それは勝手に、どうも、ありがとう」
「どういたしましてッ」
 そうやって皮肉を言い合った。
 ――そういうことを言われて、嬉しくないはずがないじゃないか。お前みたいにあっけらかんと他人の心配をするだけの余裕は、僕にはないよ。
 そう応えられるだけの素直さを、残念ながら僕は持ち合わせていなかった。代わりに、
「飲むか?」
 僕は言って、コーヒーのパックを差し出す。
「いいの? サンキュ!」
 わぁい、とでも歓声を上げそうな顔で、両手でパックを受け取り、コクコクと喉を鳴らして冷えた甘いコーヒーを飲み、ふはぁ、と息を付く。
 見ていて一々面白い仕種をする奴だな、と思っていると、
「ありがと。喉、渇いてたんだ」
 半分ほどまで一気に減らされたらしいパックが返された。軽い。
 ああ…、その笑顔は狡いぞ。悪態も吐けない。
 餓鬼っぽい、というのとも違う、如何にも少年少年とした面持ちをしている彼だが、くるくると変わる表情はコーヒーをくれてやるに値する…、そう、自身を宥めることにした。
「そりゃあ、あれだけ走り回っていれば、喉も渇くだろうさ」
 せいぜい校舎を屋上まで上がってくる程度の運動しか普段しない僕は、そう言って息を付く。
「あ、見てたんだ…」
「全部な」
「うわ…、じゃあ、もしかしてアレも?」
 半笑いになったコウタに、当然だろ、と、
「アレも。二回転半、バッチリ」
 応えながら、人差し指を立てた手をくるくる回してみせる。
 ドリブル突破に失敗し、前回り受け身の体勢で敢えなく地面を転がった彼である。
「うわぁ…、アレを見られたとなると、ちょっと恥ずかしいかも」
 反射的に口元を覆うコウタは、
「アクロバティック演技としてはC級だったな。しかも大失敗」
 次の僕の指摘でついには頭を抱えてうずくまった。
 時々、アクションが大袈裟な奴だ。
 半分呆れながら、僕はその横に柵を背にして座り、無意識に胸ポケットに手を入れようとしたことに気づいて苦笑した。
 癖になってしまったことはどうにも、直ぐには無意識の行動から外れてくれない。
「お前、もしかしていつもここでお昼食べてるの?」
 膝を抱えたまま、コウタは訊いた。
「…悪いかよ。好きなんだよ、ここが」
 ここが、にアクセントを置いて応えつつ、シャツを軽く払う。裾をズボンに入れていないせいか、先がひらりと風に揺れた。腹を掠めて、背に抜けていく。
「そんなことないよ。オレもここって好きだぜ」
 ぱん、と砂の付いた膝を払って、スクワットをするみたいに立ち上がった。
「なんていうのかな…。ごちゃごちゃしたことから、ちょっとだけ逃げたくなっちゃったときとかに、こっそりここに来てる」
 そう口にしながら、ゆっくりと柵に上半身を預けていく。
 その横顔が、ほんの少し大人びたものに見えて、
「お前でも落ち込むことがあるんだな」
 そんな冗談が口を付いて出た。
「失敬な」
 不貞腐れたような顔をして、コウタは横目で僕を睨み付けた。
「オレだって人の子だもん」
「そういう問題か?」
 僕の言葉を半ば無視して、彼は、
「おお、よく見えるっ」
 と柵から身を乗り出して、校庭の情景を眺めている。コウタの抜けたゲームは依然進行していて、チームプレイなど何処吹く風で、ほぼ全員が一つのボールに群がっていた。誰が敵か味方か、僕には元より見分けが付かない。
 学校というある意味閉鎖空間の中で、空という展望に開けた屋上は、自分が学校にいるということを一瞬だけ忘れさせてくれる。ついでに、その学校の中で自分が出会った嫌なことも、天空に向けて蒸散させてやる、という人もいることだろうと思う。
 けれど、僕とコウタの場合、出会った場所がこの屋上だったから、過去の清算には似合わない所だと言える。だから、僕たちの場合、それは過去と真正面から向き合う機会の場所として、この屋上は場を為しているのかもしれないな、と考える。
「それにしても…、今日はいつにも増して、ゲームが始まるのが早かったな」
 僕が指摘すると、斜め下に向かったコウタの視線が、じわりと冷や汗、というような目付きになった。
 内心、これは流石に子供っぽいな、と思ったことを、敢えて言ってみる。
「どうせお前のことだから、口の中のものを全部飲み込まないうちから、校庭に飛び出していったんだろう」
 肩がピクリと動いたのを、僕は見逃さなかった。案の定、
「う…、それを言われると少し耳が痛いかも。けどなあ」
 コウタは大人に叱られる子供が言い訳をするときみたいな顔をして、
「サッカーって、校庭、大きく使うだろ? だから早く外に出てないと、他の奴らに取られちゃうんだよ」
 実際、そんな下手な言い訳をした。
 だったら外で食べればいいのに、と思ったが、彼らには彼らなりのルールがあるのだろう。
「あっ! パス遅い! あのバカっ、取られちゃったじゃん!」
 そんなところから指示を出しても届くはずもないのに、手を振り回して校庭のサッカー少年たちに檄を飛ばしている。
 能天気な奴だ、と改めて思わなくてもいいことを反芻しながら、再び柵に背を向けて座り、カサカサと購買部の袋に手を入れる。
 人並みに他人のメニューが気になったのだろう、僕の手元を覗き込み、
「ああっ、またパン食べてる! ちゃんとゴハンも食べなきゃダメだよ?」
 いきなり大声を上げた。いつも静かなはずの屋上が急に騒がしい。
「仕方ないだろ。購買部には弁当なんて――」
 売ってないんだから、と言いかけて、
「…また、って、どうして知ったような口を利ける?」
 一瞬、ぽかんと口を開けて、コウタは沈黙した。
「え? えへへ」
 目が合って、彼は決まりの悪そうな笑みを浮かべる。
「気になるものは、…気になるんだよ、やっぱり」
 どうやら…、時折、様子を伺われていたらしい。
「お前、いっつもお昼にはパン食べてるんだもん」
 人の食事を陰から覗かれていたことが分かり、決して気分が良くない僕は、何となく不貞腐れて、
「関係ないだろ、コウタには。僕が何を食べてたって」
 そう呟いて、取り出したパンの端をもそりと噛んだ。
「コウタが僕の食事の心配なんてしてくれる必要――」
 以前の僕だったら、そこで『だったら放っておいてくれ』と無下に突き放したのだろう。けれど、コウタには言えない。僕にとって、彼は他人ではないからだ。
「そんなことないよ。知らない仲じゃあないんだからさ」
「いや、だから僕が言いたいのは…」
 パンの欠片を飲み込んで、
「例えば…、お前の目の前に、お前の友達がいるとする。そいつはジャンクフードが好きで、よく学校帰りにファストフード店に寄ったりしてる。けど、そいつはそういうものが単純に好きだから食べてる、そういう奴だ。それに対して、一方的に食べるのを止めろ、って突きつけることは、親切なんてものじゃない、ただの難癖だろう」
「…うん」
「だろう?」「だからって、そんなのばっか食べてたら良くないよ」
 今時のティーンエイジャに似合わない有難い助言だな、と思いつつ、
「それは、そうだけどな。一食くらい、好きにさせてやろうと思わないか」
 相槌を打ってやると、
「ほっとけないよ――」
 コウタは頭痛を堪えるような顔で俯いた。
「あまり難しいことは分かんないけどさ。やっぱり、ムツミに何も言わずにいること、出来ないよ。昼だけじゃなくて、朝とか夜とか、ちゃんと食べてるのかな、って心配なんだ」
 それで、彼の『ほっとけない』の精神は、最初から最後までずっと僕に向かって告げられていたのだと気づく。意地を張っていたのではなかった。単純に、そういうことだったのだ。
 どうやら彼は…、本当に、僕のことを何かしら心配してくれていたようなのだ。
 僕は少しだけ、気まずくなった。
 調理パンの味が、半分以上何処かに飛んでいってしまっている。これも、気の持ちようによる不味さなのだとしたら皮肉気だ。
「…食べるか?」
 僕は言って、袋の中からもう一つ、パンを取り出す。
「いいの? 足りなくなっちゃわない?」
 受け取っておいてから、コウタは訊いた。…食べるのか。
「コーヒーももらっちゃったし。悪いよ」
 コーヒーの一気飲みには、一応、罪悪感を感じていたらしい。「元々、少食なんだ。それだって気紛れで買ったようなものだから。持って戻るのも変だし、だったらコウタが食べてやってくれよ」
 言い訳だろうか、と自分で思いながら言うと、
「あ、うん。じゃあ…、もらうね」
 空っぽになった袋を丸める僕の横で、躊躇うようにコウタはパンを見つめていたが、直ぐに封を破って、ぱくんと噛みついた。
 二人、もそもそと租借をする気配がしばらく漂った。
「オレ、ジャンクフードってあまり好きじゃないんだ」
 ふと、思い出したようにコウタが言った。
「そうなのか?」
 サッカー少年には意外なような気がして、僕は少し驚いた。
「ああ。あーいうのって大抵、油っこいのが多いだろ? 切っ掛けは何だったかなあ…。昔、『外国版直輸入!』という触れ込みで、フィッシュ・アンド・チップスが流行ったこと、あるだろ?」
 フライドポテトとフリッターだ。どちらも揚げ物である。
「ああ、そういえば。…駄目だったのか?」
「ぜーんぜん。もう、胸焼けがして直ぐにアウト。その時がまだガキの頃だったからさ、それ以来、他のジャンクフードも手が出せなくなっちゃって」
「それはご愁傷様だな」
 本当にだ。こういうのも変だが、彼は質の悪い失敗作に当たってしまったのだろう。今のご時世、ファストフード店はどの街にも軒並み連なっている。『ジャンクフード』という呼び名も似合わないだろう。
 けれど確かに、十年も昔となると、今ほど当たり前のものではなかったから、個人的嗜好によっては忌避されても仕方がない粗悪品もあったように思う。
 …まったく、最近の学生に似合わない思考が続く。
「僕も、好きじゃないけれどな」
 一度言葉を切って、
「というより…、ものを食べるのが、僕はあまり好きじゃないのかもしれない。ルーティンワークみたいに、ただ朝昼晩は食事をする決まっているから食べる、そんな感じで。食事に対して興味があるわけでもないし、別に持とうとも思わない」
「そう、なのか?」
 先刻の僕とまったく同じ反応をして、コウタは僕を見遣る。
 別にベジタリアンなわけじゃないぞ? と前置きしておいて、
「無感動な奴だと勘違いされそうだけれど…、食事が面白いとも思わないからな」 僕の考えはそこに落ち着くのだと、締め括った。
「そっか…」
 僕の体質を少なからず知っている彼は、パンの最後の一口を飲み下し、しばらく唸った。
「…コウタ?」
 何やら嫌な予感にも似た雰囲気を感じて名を呼ぶと、
「そうだ!」
 ぱん、と両手を平に合わせ、
「な。オレ、弁当作ってきてやるよ」
 突然、彼は言った。
「は?」
 一瞬、彼が何語を言ったのか理解出来ていないのかと思った。
「ベントウ? 弁当って言ったのか?」
 再び立ち上がり、彼は、言ったよ、と腰に手を当てる。
「だからっ」
 コウタは半分勢い込んで提案した。
「お前が良ければさ。弁当、お前の分も持ってきてやる」
 料理が得意、って…、自分で言うのか、それを。
「いや、けれど…」
 幾らなんでも、弁当作りは迷惑過ぎるだろうと、突然の申し出に同応えていいのか分からずに逡巡していると、
「あ…、やっぱり、そういうのって迷惑か?」
 一気にシュンとした表情に変わる。
「ゴメン、オレ、考えなしだから」
「そうじゃなくて―ー」
 確かに、自分の考えに真っ直ぐに向かう精神は見上げたものだと思う。けれど、それが考えなしだと直結させるには時期尚早だ。
「迷惑ってわけじゃ。コウタこそ、僕なんかを相手に迷惑じゃないのか?」
 遠回しに断りたい気持ちが表に出ないように努めて言うと、
「何言ってるんだよ。友達だろ? 困ったときは助け合い、だぜ。な?」
 別に僕はパン食でも困らないのだが、という思いが表情に出たのだろう、
「それにオレ、元から弁当持ちだから。もう一人分増えたところで同じだよ」
 そう言われて、思わずキョトンと彼を見つめてしまう。
「お前…、弁当持ちだったのか」
「そうだよ?」
 何を当たり前のこと、というような目で見るので、笑いそうになってしまった。
 続けて、彼の言葉の意味を反芻し、くつくつと笑いが零れた。
「…なに、笑ってるんだよ」
 つい思い浮かべてしまった、コウタのエプロン姿。…似合わない。
「いや…、お前が料理してる姿が目に浮かんで。あまりに似合ってないような気がしたから」
「なんだよお」
 悪いか、というような表情を顔一杯で見せられて。僕は彼の言う申し出の肝心な部分に気がつけなかった。
「けれど…、お前はともかく、お前の母さんにも迷惑だろう?」
 僕だって、他人の親に弁当をたかるほど悪い性格はしていないつもりだ。
 …と思っていると。
「あ、ムツミは知らなかったっけな。オレ、兄貴と二人暮ししてるんだ」
 またしても突然の告白。
「二人?」
 或いはあまり触れない方がいい話題なのだろうかと言葉に詰まると、
「違うって。ウチ、両親が共働きなんだよ。しかも去年くらいから二人とも、海外勤務続きでさ。次に家族全員そろうのは、にぃ、さん、し…、五ヵ月後、かな。盆暮れ正月は親子水入らず、防水完璧って感じで」
 如何にも可笑しそうに笑った。あながち、大袈裟ではないのかもしれない。
 両親が他界しているのかと不謹慎な勘違いをしそうになったことを恥じつつ、少し考え、…はたと結論。
「と、いうことは…」
「そういうこと。掃除に炊事に洗濯、何でも来いだ」
 何故か得意気で、嬉しそうな顔で彼は言う。腕捲りでもしそうだ。
「今なんかもう、家の中のことは大抵、任せられてるんだぜ。…兄貴、面倒くさがりだし」
 さり気無く冷たい心中を零した。
 成程、そういうことか、と頷きつつ、
「なんだか意外なこと続きだが…、お前、毎日自分で弁当作って来てたんだな」
「そうだよ。ちゃんとオレ、毎日料理してるんだから」
 あまりにも意外な答えを手に入れて、弄んでしまいそうだ。忠実な奴だったんだ、コウタ。
「ただのサッカー少年じゃなかったんだな」
「失敬な。保母さんになれるかもだぜ、オレ」
 に、似合わない…、――だろうか。…少し、見方を変える必要があるかもしれない。
「兄貴は大学生で、オレと生活サイクル違うしさ。朝ゴハンなんかは一緒に作って置いといて、後で食べてもらったりしてるけど。しててしてない一人暮らし、みたいなものだよ」
 照れくさそうに、言った。
「ああ…」
 しててしてない一人暮らし。その言葉の響きには、自分の境遇と似通ったものがあった。
 彼には話していなかったが、僕も、しているのだ。親から離れた一人暮らし。ただ少し、あまり普遍的とは言い難い理由が介入しているのだが。
「ムツミ?」
 あまり深く思い出したくない過去が脳裏に浮かびかけたが、
「何でもない」
 僕はそれを振り払った。
 たまには、誰かの伸ばした手を取ってみるのも悪くはないんじゃないだろうか。
 珍しく、僕はそう思った。
「関係ないなんて言って、悪かったよ。…弁当、頼んでもいいか?」
「勿論! お前、身体が強くないんだから、やっぱりゴハンも食べなきゃダメだよ?」
「そう、かもな」
 不摂生をよしとしていたわけではなかったものの、誰かに改めて指摘されると、少し胸が痛かった。
 自覚していることだから変えようもあるはずだが、…僕は、自分を決して大切にはしてない。それがきっと、コウタにも分かっていたのだろう。今日のことは、小さな切っ掛けに過ぎない。
「うしっ、決まり! 気合入れて作ってくるからっ」
 早くもメニューを考え始めているらしく、何やら呟きながら指を折り始めた。
「そんなに楽しいのか?」
 つい僕は、そう訊いていた。食事のメニューを考えることが、そんなに楽しいことなのだろうかと思う。
「え? オレ、そんな顔してる?」
 自覚していなかったのか、キョトンとした顔でコウタは僕を見る。
「ああ」
「うーん…、誰かにオベント作るなんて、オレたちにしたらあまりないことだろ? オレも誰かに頼まれたことなんてなかったし。だから、もしかして役に立てられるかも、って考えたら楽しくなっちゃって」
「…お前らしいよ」
「からかってるのかよ。そういうこと言うと止めるぞ、作ってくるの」
「いや…、お願いする。お願いします」
 わざと丁寧に言って、十五度ほど頭を下げた。
「けれど…」
 クックッと耐え切れない笑みが喉から零れた。
「お前が料理する姿、やっぱり似合わないよ…」
 考えてしまって、そのまましばらく顔を上げられなかった。
 まさか本当に、エプロンを付けてキッチンに向かっていたらどうしよう、と思ってしまった。
「ほ、ほっとけよ!」
 直ぐ様、屋上にコウタの大声が響く。
「これでもオレ、家庭科の授業の模範生なんだぞ!」
 その台詞でとうとう、僕は我慢出来なくなった。
 ――もう少しで呼吸困難になるところだった。
 本当に将来、料理人か保父になるんじゃないだろうな、コウタ。


中編 >>

目次


Copyright(c) Kazui Yuuki all rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送