金糸雀の呼び声


 ねえ、蝶は何処へ行ったの?
 少年は尋ねる。
 そんなに大切ならば、鳥籠に閉じ込めてしまえばよかったのに。
 何処へも行かないように。
 首を振り、彼は答えた。


   □   □   □

 陽射しが首筋にチリチリと痛い。
 春が終わるにはまだ早く、夏にはまだ遠いというのに、普段より太陽が地上に顔を寄せているのではないかと疑いたくなる日光の眩しさは、私の眼をそちらに向けさせない。
 いつもなら清々しく感じるはずの空の青さが、今日ばかりはあまりに濃く見え、鬱陶しい。見渡す限り、雲は見えない。子供の頃は晴天を好むあまりに、その存在が恨めしかった、あの白い雲は、太陽の熱で――、それとも、濃い水溶液のような天空に全て溶けてしまったかのようだ。
 そういうときに限って、人の助けとなるはずの風も吹かない。服の内側に熱気が溜まり、前髪が額に張り付く。私は一人、自分の周囲の空間だけが、時を通り越して真夏になってしまったのではないかという錯覚すら覚えた。
 そんなことがあるわけがないのだが、私は自身の性格上、ついついそんなことを考えてしまう。職業病とまでは言わずとも、思考回路がそんな性質をしているのだろう。
 分類するなら、私は文筆業を営んでいるということになる。営むとはいっても、それは言葉の上で、せいぜい中短編を書いて、小部数発行の雑誌に掲載されるがいいところだ。単行本がないわけではないが、その印税だけで食べていかれるほど売れているわけでもない。
 首筋に手を遣り、そして掌を見つめるまでもなく、私は嘆息した。僅かにでも滲み出てくる汗が、余計に私を不快にさせる。
 いや…、私は、不快な気分を身に纏っている自分自身をこそ、不快に思っているのかもしれない。
 陽光が強ければ、その分だけ影も濃くなる。光が強ければ、その分だけ闇も濃くなる。原色の絵の具を全て混ぜ込んだような、そんな闇が一寸先に待っていないという保証は何処にもないのだ。…そんなことを考え、私は軽く苦笑する。
 そうでなくとも、異常気象の前触れは確かに私たちの眼に映るようになった。人は他の動物と違って自然に対する適用を、自分以外の周りの環境を変えることで対処しようとする。愚かにも人間は自然を自らの知恵により支配出来ると信じ込んでいるのだ。
 私の脳裏に、陽光を反射する白い建物の映像が過った。無罪と善意の集まりであることを証明するような物体。
 光を受け止めることにどんな善があり、どんな悪がそこから払われているというのか。
 この世に生を全うするものなら誰しもが、善悪の判断は自身に前向きの影響をもたらすかそうでないかで決められると言っていいだろう。それが概念なのかは言い切れないが、私にとって陽光とは何かと考えてみれば、そんな結論にまで思考が及ぶ。
 そもそも善と悪について定義しようとすることは、善なのか悪なのか。それこそが非生産的な思考経緯なのだと私は考えを振り払った。善悪論は主観的な要素が多分に働く。だからこそ、偽善や偽悪といった造語が発生し、なおかつそれらが人間の行動形態を示す当たり前の性質として用いられるようになっているのだ。
 晴天の下、土瀝青が水槽の底に敷き詰められた砂のような光の反射をし、私は再び眼を細めた。子供の頃にはなんとも思わなかった、視界の隅に映る情景の欠片に、私は自然と意識を向けるようになっていた。
 世間の流れに流されない生き方とは、このようなことを言うのだろうかと、私は時々冗談交じりに脳裏に横切らせるが、それは言語を楯にした逃げなのだということにもとうに気づいている。
 私は執筆の依頼を受けていた中編小説の原稿を出版社に届けたばかりの、その帰り道だった。一仕事終えたばかりだというのに、その日の天気がこれでは、気が滅入らない方がおかしい。かといって、陰鬱で貪欲な曇天を頭上に歩く、というのも、なかなか心身に重苦しいものがあるのは否めないが。
 前日に仕上げたばかりの原稿は、この季節には似合わず冬が舞台の物語だった。小説とはいっても硬い文章を思うように書けない私は、専ら少年小説のようなものを書いている。それも、叙情的な物語ばかりだ。
 本来ならば少女を主人公に据えられがちな物語の流れを、少年の視点から描いたのが新鮮であると、そう悪くない評判も少しは頂いているらしいが、私のような者が書くにはあまりにも似合わないではないか、と自覚してはいる。性分というものは性格と同義で自然と付いてまとわり付くものらしい。
 雪の降る日に外套を身に付け、白銀の世界に駆け出していく少年たちを描くのは、正直なところ楽しかった。夏になると冬を思い起こし、冬になると夏を恋しく思う。それを反映するかのように、人々は夏には流麗に涼しげな物語を、冬には気持ちを暖かにさせる物語を求めようとする。そしてたった半年分の過去を懐かしみ、半年先の季節を恋しく思うのかもしれない。
 私にも当然幼き過去があり、私の書く物語が随筆であったと言えない部分もなくはないのだが、しかし今の私の中には、確固たる『少年』の記憶は既に残っていないと言っていいのではないだろうか。
 少年というのは、人生の中でも特異な区切りで表されるものだと私は認識している。精神的、肉体的にと、いつからいつまでが『少年』であるのか、その定義は誰にも決められない。人生のある一部分がそうなのではなく、私などは『少年』とは、普段私たちが日常そう呼ぶ言葉の外にある存在、つまりはある意味他の人間とは違う生き物なのではとすら思うのだ。
 無機質な言い方ではあるが、根拠とすべく一つ、例を挙げよう。彼らが私たちと決定的に違うのは、その骨格の部分であると思う。鳥の翼から羽をもぎ取ったような肘や膝の鋭角さは、ちょっとしたことで壊れてしまいそうに脆いものであるようにすら感じる。そう、独特の痛々しさが既に介在するのだ。
 少年の域を…、刻を越えると、彼らはやがて『男』になっていく――それが性という名の呪縛だとすれば――。やがては少年時代の名残りは綺麗に消え去ってしまっている。そう、丁度私くらいの年になれば。
 まさに夢を忘れてしまった遺伝子の集まりでしかないのだ、そういう者は。それはもはや、記憶でしかない。少年たちの楽園は、精神という名のオーロラのように、砂漠の真っ只中で遠くに見える蜃気楼のように幻想的で、手に掴むことは出来ない。
 役所街から住宅街の片隅に足を運ぶ。鉄筋の建物ばかりだった光景から、見る間に緑色の樹木が辺りに増えてくる。目の前を、白い色をした小鳥が斜めに飛んでいった。
 翼を持った鳥は自由だ、いつでも空へ飛び立つことが出来るから――。たった一度でもそんな幻想を抱く者は多い。私もそんな者の中の一人だった。
 しかし、少なくとも今の私は知っている。鳥になりたいという望みが幻なのではなく、鳥が自由なのだということこそが虚構の心像なのだということが。羽を手に入れることで自由が手に入るのなら、誰しもが籠の裏から表に抜け出すことが出来るだろう。
 だがその権利を得ている少年たちは、自ずから飛び立とうとはしない。何故か? 彼らは何を求めているのだろう。彼らが本当に求めているのは翼なのか、翼を持った誰かなのか。
 いや…、実のところ、彼らは自分自身で翼から羽を毟り取ろうと画策するのかもしれない。無邪気な天使と間違われないように。
 私は…、縋っているのかもしれない、そう思う。幾ら書いても形の見えてこない少年たちを、それでも描き続けることによって、少年だった頃の自身の片鱗を探し出すに至れれば…。そう思っていた時期もあっただろう。しかしそれは絶対に叶わぬ夢でしかないのだ。それは私自身が知っている。
 自分自身の考えを表すためには、兎に角それを何かに表すことだ、そう教えてくれたのは小学校の教師だっただろうか。今の私にとっては、空の雲や星を掴むことの方がきっと簡単だと思えるだろう。
 誰のことよりも一番理解しているはずなのに、もしかすると何よりも正体が分からないのかもしれない、との不安すらもたらす自分自身という存在は、グラスを一息にあおるように簡単に取り込むわけにはいかない。もう何年もこうして目的の見えない物語を書き続けている私の意識が、そのままそれを証明している。
 もっとも…、人は誰しもそうして生きているのかもしれないが。

   □   □   □

 ねえ、鳥は何処へ行ったの?
 少年は再び尋ねる。
 鳥が何処かへ行ったのではないよ、その代わり、
 お前が籠の中に閉じ込められただけさ。
 首を振り、彼は答えた。

   □   □   □

 私はとうとう場違いな陽気に根を上げ、通りがかった公園で小休止することに決めた。役所街と住宅街の境にあった公園らしき広場に、私は足を踏み入れる。
 多くの木々が林立している。鮮やかな緑色の心象が私の視界を満たしていた。木が集まって林となり、林が組み合わさって森になる。小さな緑の園。
 私は小さな頃に聞いた冗談話を思い出す。木が二つで林、木が三つで森という漢字が出来る。四つでは漢字にはならないが、では五つではどうなるだろう。
 答えは、森林だ。
 …ようやく風が一筋だけ首筋を駆けて行き、私はほっと息をついた。危うく眩暈を起こすところだった。人生は若いうちが華――。年を経ていくにつれ、香りは消え失せ、色はあせ、紙のように乾いていく。そうならぬよう、しかし過去に縋って生きているのが私たちだ。
 梢の影に足を運び、幹に寄り掛かって私は呼吸を整えた。太陽の熱を意地悪く伝えたアスファルトから解放され、明らかに違う梢の下の空気が私を安心させる。
 彩り豊かな花壇があり、空に向かう噴水があり、鯉が泳ぐ池がある。綺麗に均された砂利道があり、静かに流れる小川があり、白い上着の青年が腕を浸していた。身体を支えるもう一方の手に、白い包帯が巻かれているのが眩しい。
 偽りの自然は、何処にでも、ある。ただそれが自然に見えるかそうでないかの違いがあるだけだ。ただ、それを人工物だとは捉えたくないと思う。『自然』という名のイデアを求めた結果がそこに存在しているのだと考えれば、それは作り物の自然ではあっても、偽物の『自然』ではないはずだ。
 大概にして、人が『自然』云々を言い出す地において、自然そのものは意外と少なかったりする。花が多く、川があり、緑豊かな場所だからといって、無闇に自然のありがたみを語りだす輩を私はあまり好まない。
 自分に対し軽く苦笑して、私は懐から煙草の箱を取り出した。物語を作り出すようになってから、私は喫煙をするようになった。詳しくいつだったかは思い出せない。多分、作中の少年に紫煙の心象を焼き付けるため、代償のように火を点けたのが始まりだったように思う。
 少年には無二の相方がおり、煙草に火を点ける彼にそっと訊くのだ。
『ソレ、誰に教わったんだ? ――』
 一本銜えてから、マッチを探したが見つからない。マッチ箱を何処かに落としてしまったらしい。仕方なく私は口元で煙草を揺らし、少しでも吸った気分になろうかと無駄に努めてみる。そういえば、周りに灰皿がないことにようやく気付き、結果的に良かったのだと自分に言い訳をしてみた。
 こういうときに口を付いて出る文句が『自然を大切にしたい』という言い逃れであるのなら、彼は軽蔑されても構わないのだろう、きっと。 禁煙をしようかとふと思うのは、こういうときだ。喫煙ほど、楽に止められるものはないと誰でも言う。いつでも止められるし、何度でも止められるからだ。
 目の前の枝葉に一酸化炭素を吸わせるのは野暮だと思い、結局煙草は箱の中に再度仕舞い込まれる。もしかしたら二度と取り出されることはないのかもしれない…、その期待値は、限りなく低いのだろうけれど。 やれやれと首を振って、私は折角訪れた公園を散歩でもしてみようかという気分になる。売れない小説家という身柄、そうでなくとも今日という時間はまだあるのだ。
 そうして一歩を踏み出した途端、私は立ち止まることになる。穏やかな風景が広がる公園の一角で、私は思わぬ出会いをすることになる。

  私が寄り掛かっていた木の、二本向こう側。梢が影を宿す木の下に、一人の少年がいた。僅かに俯き、頬に影を作っている少年。普段なら何と言うこともない、私の書く小説に現れても大きな違和感のないような、白い開襟シャツに半ズボンの細身の少年だ。
 実際のところ、彼の風貌が特出して私の目を引いたというわけでもない。少年が緑の園にいたことに違和感を感じたわけでもない。では何が私の足を止めたのか。
 私の視線が捉えたもの。それは少年の頬を伝うもの。眦から雫が零れ、唇の横を滑り、顎から滴っていった。首に掛かったリボンに、雫が染み入る。
 彼は泣いていた。嗚咽の声を漏らすでもなく、ただ静かに涙を流し、悲しみをその表情に浮かべて、少年は佇んでいた。
 平静、平生、そんな言葉が似合いそうな場所に似つかわしくない哀しみの余韻。その素因は少年のその涙にあるのか、それとも彼に涙を流させた何かにあるのか。沈黙を連れた涙は綺麗なものであるが、私は――無粋ながら――、そんな美辞麗句を必要としたことがない。
 私の脳裏に疼く響きがあった。憐憫の念だろうかと思いかけ、直ぐに打ち消す。そんなに私の感情は安っぽくない。そしてこの少年もそんなことは望まないだろう――それが私の思い込みに過ぎないのだとしても――。
 では、この思い出を何処かに置き忘れてきたような感覚は何なのだろうか。この儚くも思える心情の面影は。
 私の意志とは無関係に視線はそちらに向けたままだったのだろう、少年は離れた位置にいる私に気付いたようで、頬を上げ、私の姿を――恐らく滲んでいるだろう――その視界に捉えた。その瞬間、また水滴が舞う。少年の声無き声が聞こえてくるようだった。
 私は何故か視線を逸らせなかった。しかし心の内で動揺がなかったと言っては嘘になる。一瞬、私は、
『あの子を知っている――』
 そんな錯覚に囚われる。
 少年は二、三度瞬きをし、慌てて濡れる目尻を拭った。私はそこでようやく視線を一度外し、喉の奥で小さく咳払いをする。
 …次に視線を戻した時。
 まるでそれが決まっていたかのように、戸惑う視線がぶつかった。

   □   □   □

 ねえ、蝶は帰ってくる?
 少年は更に尋ねる。
 だからお前は籠の中にいるんだよ、蝶の変わりに、
 蝶が帰ってこなくてもいいように。
 首を振り、彼は答えた。

   □   □   □

「――…が、見つからないんだ」
 最初に声を出したのは、少年の方だった。消え入りそうな声で、しかし私はその声を確かに感じ取る。
 何かを、それとも誰かを彼は探しているのか。私の脳裏にまた瞬くものがある。いつも抱いていた小猫を見失った少年…、私が書いた物語にも、そんな少年はいた。だがそれとは違うような気がする。
 彼の呟きは、独り言のようにも思えたが、その意識は確かに私の方に向いている。所在無げにしていたのはむしろ私の方で、落ち着かない自身の視線を抑えるのに苦労する。
 その時、少年の足元に小さな鳥籠があるのに気付いた。少年の頭ほどの大きさの、小さな鳥籠。細い鉄の枠しかない、飾り気のない、空っぽの密室。その片隅の扉が、今は薄く開いている。
「鳥が、いなくなったのかい」
 幾分躊躇しながら私はそっと声を掛ける。少年は私を見てこくんと頷いた。私は無意識に、少年の姿よろしく、小さな籠の中に入っていた鳥の輪郭を思い浮かべる。鸚鵡(オウム)、金糸雀(カナリア)、九官鳥、目白、鶯(ウグイス)…、少年を小鳥に例えた物語を記したこともある。
「佳那(カナ)っていう名前なんだ」
 泣くのを必死に我慢するように、少年は軽く握った手を口元に当てて、一度啜り上げて言った。特別な干渉の思いがあったわけではないが、私は少し彼に歩み寄る。
「佳那」
「そう。いつも綺麗な声で歌う」
 彼の口にした鳥の名前で、私はそれが金糸雀なのだと知る。雄の金糸雀は美しい声でさえずるが、それは優しくもあり、また同時に堪らなく儚い。私には、金糸雀は『神経の鳥』だという印象がある。刻の繋がりを刻み込む鳴き声は、まさに『刻の神経』を繋げる秒針のように儚く脆いのだ。
「ぼくは、佳那の声が他のどんな声よりも好きなんだ」
 そう言う少年の表情が、――まだ半分泣き顔のそれだったとはいえ――少しばかり緩んだ。それを見て、彼にとって佳那という名の金糸雀の大切さが窺い知れた。
「彼を大切にしていたんだね」
 私はそう言ってしまい――はっとした表情で彼は私を見た――、直ぐに自分を叱咤する。つい金糸雀の存在を過去の時形で口にしてしまった。少年はずっと現在形で口にしていた。彼が佳那の行方を捜し続け、しかし未だ諦めてなどいなかった証拠だ。
 なんて気遣いの足りない大人なのかと私は後悔した。物書きの分際で、自分の言葉に責任を持ち切れないとは。まるで彼らの再会への希望を私が打ち砕いたかのような疑念に襲われる。
「…すまない。気休めの言葉も思い付かなくて」
 それは私自身に対する皮肉でもあった言葉だったが、少年は首を振り、頭上の梢をひと目、見遣った。
「いいんです。本当にぼくは佳那のことが好き…、だったから…」
 ついには少年も過去形の言葉遣いを持ち出してしまう。再び俯く彼の目尻にまた涙が盛り上がるのが見えた。
「もう…、見つからないかもしれないとは思っています。もう、…諦めようかとも」
 余計な言葉が少年の心を乱してしまったと私は慌てて、
「そんなことを言ってはいけないよ。余所者の戯言だと聞き流してもらっても構わないが、きみがその子を本当に大切に思っているのなら、その相手がその気持ちに応えないことはない」
 そうだ、金糸雀が少年を見放して逃げ去ったのだとは限らない。何処かで羽を傷つけて、主人の助けを待っているのかもしれない。それとも、帰り道を迷っているのかもしれない。ここにいないという一点の事実が、全て完全な別れに繋がるとは限らないのだ。
 しかし――、その一方で、もしも金糸雀の側が少年の傍から如何にしていなくなったのか、という経緯を辿って考えてみるにつけ、籠の扉が開いた際に『少年の手を逃れて』佳那が飛び去ってしまったのだとしたら、それは『鳥が少年から逃れた』ことを意味するのではないか、という危惧が脳裏に持ち上がるのも正直なところだった。
 だから半分、しかし実際には殆ど、という面持ちで、私は少年を宥めるのに必死になっていたと思う。大人のつく嘘は、真実ではないが事実だ、事実ではないが現実だ――、嫌な諺が耳を刺す。
「事実、きみの気持ちはずっと変わっていないのだろう?」
 少しの沈黙の後、少年がはっきりと頷くのを見て、私は安堵の息をついた。それもまた嘘の一つとなってしまうのだろうが。
「そう、その気持ちは大切だ」
 私は少年の隣まで歩み寄り、屈んで芝生の上に置かれた籠を見た。その姿勢のまま、ハンカチを取り出して少年に差し出した。
「私もね、昔、鳥を飼っていたんだ。名前はもう、忘れてしまったが」
 思い出しながら私は言い、彼は目を丸くした。
「これで拭くといい」
 と私が言うと、素直に受け取って目尻に当てた。
「私も、不注意からその鳥を逃がしてしまってね…、随分探したんだが、結局見つからなかった」
 芝生をひと房千切り、風に乗せる。フワリと一瞬浮いて、そのまま緑の切れ端は宙へ流されていった。
「…そうなんですか」
「今となっては思い出に過ぎないが、確かに私はその時、友人を失った気分だった。きみときみの金糸雀に絆があるのならば――」
 絆があるのならば。
 その先を私は敢えて言わなかった。必ず見つかる、戻ってくる、と保証してみせることは私には出来なかった。
 少年と一緒にいるためとはいえ、籠の中にいるのはどんな気分なのだろう。佳那にとって、籠は果たして彼と共に生きるための住処だったのか、…それとも無情な檻だったのだろうか。私は声に出さずに、ここにはいない金糸雀に問い掛ける。当然答えが返ってくるわけでもない。
 翼を持つ金糸雀は、自由を手に入れたのだろうか。確かに少年と共にいれば、そう簡単に大空を飛び回ることは許されないだろうが、その代わりに確実な安息がある。安寧な日々は、佳那――彼の思い望むところではなかったのだろうか。
 私が金糸雀だったら、そういった形で外の世界を望むのだろうか。そう思い、しかし私はその考えを打ち消す。井の中の蛙を無闇に蔑むようなものだ。人間の住む世界が『外の世界』であるなどと、どうして言い切れようか。
「ぼく、もう一度捜しに行きます」
 少年は何かを決心したようにそう言って、私に無理に作ったような笑みを見せてくれた。その表情は、ある種、私が見たことがなかったものでなかったが、彼の金糸雀もそうなのではないかという儚さを内に秘めたもので、私は安易に笑みを返せずにいた。
 私は立ち上がって、少年が両手で差し出したハンカチを受け取る。元気付けるように彼の肩をポンと軽く叩いた。そして言った。
「私は手伝えないが、佳那の無事を祈っているよ」
「ありがとう、…先生」
 少年は私に向かって頷く仕種を見せ、木々の中に駆け出していった。見知らぬ少年から先生と呼ばれることがこそばゆかった。
 彼が視界から消えるまで私は彼の後ろ姿を見送っていたが、彼が鳥籠を持って行かなかったことに気付き、地面に目を向ける。
 ――次の瞬間、私は自分の目を疑った。そんな莫迦なと思う。少年は確かに手ぶらだったのだ…、しかし、そこにあったはずの鳥籠は消えていた。

   □   □   □

 ねえ、鳥は帰ってくる?
 少年はまた尋ねる。
 鳥が帰ってこなくても、もういいんだよ。
 代わりにお前がいるからね。
 首を振り、彼は答えた。

   □   □   □

 唖然として、私はその場に立ち尽くしていた。
 私の頭は混乱していた。
 迷い鳥を探す少年…、消えた鳥籠の鳥…、そこにはない儚い夢…、涙に濡れた頬…、そんな情景が蘇ってくる。
 ザワザワと揺れる枝葉の音。私は手に持ったハンカチを仕舞おうとし、ハッとする。あれほど少年の眦を濡らしていた涙を拭いたハンカチは、全く濡れていなかった。そんな莫迦な、再びそう思ったが、裏返してみても染み一つない。
 偽りの涙――、そんな修辞が脳裏を掠めたが、慌ててかぶりを振る。…違う。彼の頬を伝うものを私ははっきりと目にした。だから、存在しないのは、…彼自身の方なのだ、
 少年も、鳥籠も、最初からそこにはいなかった。――そうだったのだ。
 太陽を流れる雲が遮り、辺りは俄かに灰色の遮蔽に掛かる。それは私の心に掛かりつつある覆いのようでもあった。
 私は白昼夢を見ていたのだろうか…、そんなことを思う。だが、彼の姿は、私には限りなく現実味を帯びていた。幻だったとはとても思えない。
 ――或いは、私がそう思い込んでしまうまでに現実味めいた幻であったのだろうか。それを見る者が幻覚であったと気付けないほどの。
 その時、思い出した。彼が最後に私に放った言葉。彼は私を『先生』と呼んだ。彼は私のことを物書きであるとして知っていたのだろうか。私の著作の読者?
 いや、それならば少なくとも彼は私を知っている素振りを見せただろう。
 では何故?
 そういえば――、次々に私は記憶を引き出していった。…私が少年だった頃飼っていた鳥は金糸雀で、その名前は『璃哉(リヤ)』というのではなかっただろうか。
 少年の金糸雀は『佳那』といった。私の金糸雀と合わせれば、『カナリヤ』となる。これは偶然の一致だろうか。もしや、私は重要な何かをまだ忘れてはいないだろうか。
 私は木の幹に再び寄り掛かり、ぼんやりと緑の園の情景を見遣っていた。先程も見掛けた青年が、白い建物に戻っていくのが見える。上着から時折覗く、手首に巻かれた包帯…、
 包帯? そして、白い建物。
 しばしの無意味な沈黙、…そしてやがて、私はそれに気付いた。

 ここはただの公園ではなく、私がかつて一時期を過ごした病院の庭なのだということに。微かに色褪せた病棟の白に見覚えがあったのは、そのせいだったのだ。
 病の床に就いていた私にと、病棟を訪れた叔父が手に持っていた小さな鳥籠。
 そうだ、あの鳥籠だ。少年の持っていた細い鉄枠の、脆い檻。その中にいた、金糸雀。私の金糸雀がいた籠と、少年の足元にいた鳥籠は間違いなく瓜二つだ。
 幻であれ、私は振り返らずにはいられない。あの少年は一体誰なのだろう。
 その瞬間――、ドッと私の中に流れ込んでくるものがあった。複雑に入り組んだ感情の流れ。それは消えたあの少年のものだったのか、それとも…、かつての私自身のものだったのか。鳥が羽ばたく軌跡が、私の脳裏に螺旋を描く。鳥が頂点に達した時。

 私は全てを思い出した。
 少年は、璃哉だったのだ。

『佳那が、見つからないんだ――』
 少年は、そう言っていた。
 そして、私の飼っていた金糸雀――、叔父が連れてきた金糸雀は、最初は二羽いたのだ。
 そして…、私は、それぞれに佳那と璃哉という名前を付けたのだ。
 そう…、少年は、私の、金糸雀だったのだ。
 これまで、何故思い出せなかったのだろう。その理由を、今の私は手に入れていた。

 不注意から一羽の金糸雀を逃がしてしまい、私は病身だったにも関わらず、かつてのこの庭にその鳥を探しに出てきた。あの小さな鳥籠の中に、もう一羽の金糸雀を連れて。今日のような、季節に似合わず暖か過ぎる日。私は小鳥を探して右往左往した。籠の中の金糸雀は、哀しげに鳴いていた。
 どれだけ木々の中を走り回っただろう。草の間を覗き込み、枝葉の隙間を見上げ、それでも金糸雀は見つからなかった。ただでさえ弱っていた私の身体が悲鳴を上げ、私は芝生の上に倒れ込んだ。鳥籠が転がり、しかし私は起き上がることが出来なかった――。
 無理がたたり、私は高熱を出し、何日も寝込むことになった。ようやく熱が引き、再び動けるようになったとき、しかし、私はあの日の記憶を半分失っていた。覚えていたのは、金糸雀を飼っていたこと、逃がしてしまったこと、見つからなかったこと。
 金糸雀が二羽いたことを、そして佳那と璃哉という名前をつけたことを、私は忘れてしまっていた。病室に返ってきた空っぽの鳥籠を見て、ああ、やっぱりぼくの金糸雀はもう帰ってこないんだ、そう思ったのは覚えている。しかし、それきりだった。
 最初に見失った金糸雀は、佳那だったのだ。それを私は確信した。そして、私は璃哉を連れて病室を抜け出した。私が倒れた時、籠の小さな扉は開き、璃哉は外に出ることが出来たのに違いない。そして、傍らにいない佳那のことを思って涙を流した…。
 そうだったのだ。誰よりも佳那のことを好いていたに違いない、璃哉。佳那の美しい声が大好きだったと言った、あの少年。私の金糸雀たち。それが、刻を経て私の前に姿を現した。
 だからこそ、涙を流していた少年の姿を思い出すにつけ、私はいたたまれなかった。もしかしたら私は佳那を無事に見つけ出してやることが出来たかもしれない、という後悔と共に。…そして、その姿は、少年だった私自身の姿でもあったのかもしれない。
 先生、と私を呼んだ少年。彼は、ずっと私の中にいたのだ。私の記憶の奥底で、じっと無二の親友に会う夢を見続けていたのに違いない。
 それとも…、と私は思った。現在の私の前に再び現れた璃哉は、過去のこの庭でその後、佳那に再び会うことが出来たのかもしれない。私の深層の悲しみが、金糸雀の少年をあのような形で私の前に映し出したのかもしれない。私は、それを望む。
 彼が佳那を探し出そうと思う決意の切っ掛けに、私が役立つことが出来たのならば、私にとって何よりの贖罪になることと思う。少年だった私が遂げられずに失ってしまった思いを、叶えられることが出来たのならば、私にとっても唯一の救いというものだ。
 少年よ、金糸雀よ、涙を流すことなく、再び空に羽ばたくことを。

 私は砂利道の中を歩き出した。それまで鬱陶しかっただけの眩しい陽射しが再び現れたが、私はそれに負ける気にはとてもならなかった。
 金糸雀の歌声は、儚くも美しい。目に見えぬ心の繋がりがあるように、どんな糸よりも細くとも、何よりも強く結びついているもの。佳那や璃哉の声の響きは、それを打ち震わせる力強さを病棟の私に与えてくれたのではなかったか。私はそう思えてならなかった。
 だからこそ、私の前に金糸雀は少年となって現れた。あの頃は確かに持っていた少年の翼。今は骨格の面影すらないが、私は私の物語の中に金糸雀の少年を浮かび上がらせ、大空に飛び立たせることが出来る。 きみの翼でこの空へ。そんなさえずりがふと、聞こえたような気がした。

 その年の夏、私は一冊の本を書いた。
 今回は、春の緑の園を舞台とした少年小説。翼を求める一人の少年と、翼を失った少年の出会いと…、別れの物語。人は翼を求める生き物だが、それを手に入れても使うことは出来ないのだ。それは何故か…、私の本を読めば分かると思う。
 私がかつて世話になったあの病棟にも、一冊進呈した。小児病棟の遊戯室の本棚の隅に、密やかに置かれていることだろう。『二羽の少年』という題で。

 ――ところで、私の書斎には、今、一つの小さな鳥籠がある。その中には二羽の黄色い小鳥が今日も共にさえずっている。私が名前を付ける際に迷いを持たなかったのは、言うまでもない。

   □   □   □

 ねえ、ぼくは何処へ行くの?
 少年は最後にそう尋ねる。
 籠の扉は開いている、
 何処でも好きなところへ。
 頷いて、彼は答えた。



("Two Bird's Yellow" Closed.)


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